たーぼの山日記

YouTubeやってます。「たーぼの山日記」山好な管理人が野宿に、渓流釣りに、たまに狩猟に行った記録です。

建てて、作って、獲って、食べる。【建てる編】

私は歩くのが好きだ。

電車やバスの様に乗り換えや行き先を気にしなくても良いし、車の様に行き先の駐車場を考える必要もない。

特に道具を必要としないし、自分次第ではどこまでも行ける。

費やす時間や苦労を厭わなければ、お金もかからない。

 

リュックに気に入った道具をいくつか入れて、この先にどんなロマン溢れる体験がまっているのか。

想像するだけで楽しい旅の妄想だ。

 

私は小屋作りが好きだ。

亡き父が残した登窯の掘立て小屋を、生活出来るように改装した日々は心踊る体験であったし、今はそこに滞在する事が私の1番の楽しみになっている。

 

では私にとって小屋作りの魅力はなんだろう。

 

私が小学生だったある日、家に届いた大きな荷物に心ときめいた時の事を今でもよく覚えている。

中身は大きな機械だったが、それではなく段ボールの箱に私の関心は向いていたのだ。

長さ140cm高さ100cmほどの大きな箱。

中身を取り出して裏返すと、ちょうどカプセルホテルの一室をさらに一回り小さくした様な空間がその中にはあった。

 

その日から、それが私の部屋になった。

 

まず下部の脇に、小さな出入り口を作った。

体の小さい子供の私が、なんとか通れる大きさだ。大人は誰も入れない。

床には布団を畳んで敷いて、枕元には持っている漫画本を全部並べた。

外から延長コードを取り込んで、壁に常夜灯をガムテープで取り付けた。狭いので、小さな豆電球だけでも充分明るい。

それからラジオを持ち込んで、外の壁には姉が絵を描いてくれた。

 

毎日その中で過ごした。

良くわからないラジオ番組を聴きながら、何度も読んだ漫画を、また何度も読み返した。

本当に楽しかった。

それに冬は熱がこもるので、家族が寝ている部屋よりずっと暖かかった。

小さな空間を、好きな物で埋め尽くす楽しさを私は知った。

 

それから私は成長し、10代の半ばにもなると、心は街へ向くようになった。

高校を卒業して、東京へ出た。

何かと理由をつけ、家へはあまり帰らなくなった。

父はたまに葉書をくれた。

「次の休みは帰って来ますか?カイが会いたがっているようです。」

カイは当時飼っていた犬の名前だ。

カイもきっと私に会いたがっていたとは思うが、葉書にそう書いて送った父の気持ちを、私は汲み取らなかった。

それから7年後、父が病気で亡くなるまで私は変わらなかった。

入退院を繰り返して、次第に痩せてゆく姿を見ても、今という時間がずっとあるかの様に私は振る舞い続けた。

 

父の死を家族がなんとか乗り越え、遺した物の整理を少しずつしてゆく事になった。

私はふらふらと坂を降りて行って、川沿いに建つ小屋のドアに手を掛けた。

数年ぶりに中へ入った。

 

減築されてずいぶん小さくなったが、紛れもなく父の登り窯小屋だった。

当時の思い出が強烈に蘇ってくるのを感じる。

自分自身も父になり、今になって思い知ることはいくつもある。

母が泊まりで家を留守にした晩、家のリビングにテントを張ってくれた父。

姉は漫画を、私はおもちゃを買ってもらい、滅多に食べられないカップ麺をそこで食べる。

寝る時、父が宝物のランタンを皮のケースから大事そうに取り出すと、姉も私も目を輝かせた。

父は自慢げにそのロウソクに火を点け、テントの天井にかけてくれた。

その影を眺めながら寝るのが大好きだった。

その日、私たち子供は無邪気に非日常を楽しんでいたわけだが、妻が居ない夜、どうやったら子供達が寂しがらないのか、父はきっと考えていたはずだ。

 

いつだってそうだった。

気が短くいつも怒っていた父だったが、その愛情に包まれた25年間だった。

そう言い切る事ができる。

父が亡くなってから、まるで温かい上着が剥ぎ取られたように感じるから。

 

手作りで建てられたこの掘立て小屋を見て、私が出来る事はもうあまり無いのだと分かった。

親孝行したくても父はもう居なく、感謝の気持ちを伝える事も、思い出話をしながらお酒を飲む事も出来ない。

無いも出来ない無力で馬鹿な私は、この場所を守ろうと思った。

父が集めた材料を使って、この小屋を人が集まって思い出話に花が咲く様な場所に変えたい。

そして子供の頃に与えてもらった様なワクワクを、子供たちにも体験させてやりたい。

今はそう思いながらこの森を開拓している。

 

山小屋が出来たことで、そこで使う様々なものを「作る」。

そしてそこを拠点にして獲物を「獲る」。

それを家族みんなで「食べる」。

と繋がってゆく。

 

まとまりのない記事になってしまったが、これが「建てる」の元になった私の体験と思い出だ。

お分かりのように、私には誰かの手本となれるような技術も知識も無いので、ハウツーのような記事は期待しないでいただきたいが、これから「作る」「獲る」「食べる」に関してこの森で暮らして感じたことを、ダラダラと綴りたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

YouTubeのチャンネルが「オワコン化」する時


「たーぼの山日記。」 

 

このブログのタイトルだ。

当ブログを知ってくださっている方は、何を今さらと思うだろう。

そして、全く同じ名前のYouTubeチャンネルを私は運営している。

 

山日記と言いながらも、ここ数年は山小屋での滞在風景を記録した動画ばかりを投稿していたので謂わば「山小屋日記」の状態が続いていた。

最近になり、この「山小屋日記」についていくつか思う事があったのでこの記事にしたいと思う。

※少し愚痴っぽい内容になってしまいました。申し訳ありません。

 

 

初めて山小屋生活の動画をアップしたのは2020年の春、世間が得体の知れない新型ウイルスの恐怖と不安に包まれていた頃だった。

私は父が残した窯を解体し、その窯があった小屋を生活出来る様に少しずつ手を加え始めた。

その営みを撮影し、編集した動画を「山小屋生活」としてYouTubeにアップする事を始めたのだった。

ボロトタンの小屋が少しずつ人が住めそうな小屋に変わってゆく過程が面白かったのか、廃材や周りの木を使ってゆくやり方が珍しかったのか、私の動画は少しずつ再生回数を伸ばし始めた。

アップした動画には幾つもコメントをいただくようになり、その一つ一つが嬉しくて、有難くて何度も読み返した。

私の動画作りのスタイルは日々の生活の記録なので、良くも悪くもそれぞれの動画の内容に差が出来にくかった。

とはいえ、次は小屋にこんな物を作ろう、とか色々アイデアを出しながら小屋の改装計画を考え、楽しんでもらえる様な動画作りを心がけていたのを憶えている。

やがてある頃になると、1つの動画で3〜4万回再生されるようになった。

チャンネル登録者も波はあるものの右肩上がりにその数を増やしていった。

 

今この記事を書いているのも動画編集の最中なのだが、最近の再生回数はどうかというと良くて1万回、つい数日前にアップした動画は4000回にも届いていない有り様だ。

なぜこうなったのだろう。

実は再生回数が減る予兆は昨冬頃からあった。

再生回数において自分の予想が外れる事はあるのだが、悪い意味で外れる事が多くなった。

 

負け惜しみのようだが、基本的に私は再生回数というのを気にしてはいない。

世間が見たい映像、というよりは自分が作りたい映像を撮りたいと思っているし、動画の中で表現するべきは自分の世界観だと思っている。

 

その2つに差異があれば、当然再生回数か減るのは仕方のない事だ。

 

しかし、それはあくまで私の価値観であってYouTube側の考えはそうではない。

チャンネルの管理画面に表示されるのは、最新の動画が今までの動画に比べてどれくらい再生されているのか、あるいはされていないのか。

総再生時間はどうか、この動画がおすすめとして表示される回数がどうか、登録者数はどう変化しているか、広告から入る収益はどれくらいになったのか。。。。

つまりYouTubeにとって、良い動画とは再生回数が伸び、多くの人に目に留まる物で、数字という絶対的な価値基準なのだ。

気にしない様に心がけても、自分のチャンネルが尻すぼみしてゆく様子を見せられるのは決して嬉しいものではない。

 

一本の動画をアップするために、一日中撮影して、編集作業にも数日の時間と情熱を費やしているのだ。

今までの動画よりも良い動画になる様にと内容も作り方も改良してきたつもりだが、動画をアップする度に10/10位、そしてまた次も10/10位、それの繰り返しでアップする度に再生回数は落ちてゆく。

何度も言うが、再生回数は気にしない、それ以外に意味があると思っていても毎回、毎回、動画をアップする度に減り続ける数字たちを見せつけられていては、動画作りを楽しめない事も度々あった。

YouTubeにとってはあくまで良い動画とは多く再生される動画、再生されない動画は悪い動画、というわけだ。

原因は一つ、私の実力不足と努力不足だ。

YouTubeが動画をおすすめに多く出すアルゴリズムとやらもよく分からないし、目新しい事を始める必要性も感じていなかった。

派手さよりも、自分の身の周りのささやかな感動を表現したかった。

新しいチャンネルや投稿者は日々出てくるのに、私はずっと同じように見える動画ばかり作り続けてきたのかもしれない。

動画をアップする度に再生回数が落ちてゆく。YouTubeは数字が全てだ。

私の山小屋生活は父子の物語だと思っている。

父が若い頃に窯のレンガを積み上げ、この小屋を作った。

父が亡くなって、何年かの後に私も人の親となり、かつての父との思い出に触れたいと願う事から山小屋作りが始まった。

そこは亡き父の思いを感じる場所であると同時に、息子達との思い出が新しく生まれる場所でもあった。

その生活の中で、感じた事、出会った事、作った物、見た景色。

まだ雪深い山小屋で春の陽気を目一杯浴びる福寿草

深呼吸する新緑のなかに実る瑞々しい畑の野菜たち。

秋が深まりひんやりとした森の空気や踏む枯れ葉の音は、様々な想像力を与えてくれた。

屋根に雪が降る音さえ聞こえるような静かな冬の夜、ストーブから薪の爆ぜる音。

小屋の中で遊ぶ子供たちの声。

私の遠い記憶。。。。

 

強烈な輝きを放つその思い出たちの価値が、単なる数字に置き換えられて、それがどんどんと小さくなってゆくのはなんと寂しい事だろう。。。

私は弱かったのだ。

 

もう、YouTubeでの「山小屋生活」はやりきったのではないか。

今はそう考えている。

 

気がかりなのはいつも動画に付き合ってもらい、コメントで励ましてくれている視聴者の人達の事だ。

今までこの人達の支え無くしては、私は動画作りをしてこられなかっただろう。

もはやこのチャンネルの一部である視聴者の皆さんを置き去りにして、私1人の考えだけで山小屋生活を終わらせてしまおうとしている。

それははやっぱり良くない事だろう、と迷っている。

どうにも決めかねているので、次にアップする最後の山小屋生活の動画に意見を頂ければ、それで決めたいと思う。

 

しかし、もちろん動画作り自体が終わるわけではない。

これからは農場作りだって始まるし、狩猟をやったり、フライフィッシングをやったり、

そしてきっとまた、「山小屋生活リターンズ」として山小屋生活も再開するだろう。

成長する息子達と共に、山日記はまだまだ続いてゆくのだ。

本当に山小屋生活と出会い、その動画を作れて良かった。

私はこの上ない幸せ者だ。

 

このチャンネルを通してたくさんの人に出会い、貴重な言葉をいただいた。

どれも山小屋生活の動画を作っていなければ得る事が出来なかった素晴らしい体験だらけだ。

 

もし、我儘を聞いていただけるのならば、いつか気が向いた時にまた

YouTube「たーぼの山日記」にお付き合いいただけると嬉しいです。f:id:takamattsu:20220720100024j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

冬の小屋暮らしを振り返って(後編)

前の記事では久しぶりにこの小屋くらしについて書いたが、今回はその続きだ。

楽しい時間はあっという間に過ぎるという体験は誰にもあるだろう。

私はここに帰ってくる度にそれを感じている。10日以上の滞在も、吹きつける雪のように、あっという間に過ぎ去って行った。

その滞在を思い返すのはずいぶん昔の事の様で苦労する。

 

2日目の朝は足先にわずかな冷たさを感じて目を覚ました。

これは奇跡の様に思える事だ。

去年の冬、ちょうど今と同じクリスマスあたりだった。

薪ストーブの熱をたっぷりと蓄えたロフトに潜り込んだ私はエアベッドの上に敷いた寝袋の中で微睡んでいた。

2時間ほど経っただろうか。

目を開いても見慣れない暗闇でどこにいるのか分からなくなる。

 

 

「死ぬ。」

 

驚いた事にエアベッド側の背中は感覚が無いほど冷え切っている。

その後なんとか起き上がり、ストーブの火を絶やさぬように寝ずの番をする事になった。。。

当時はまだロフトに壁も無く、熱はこもらなかった。

 

と、まあこの冬の洗礼は以前のブログにも書いたので詳しくは書かないが、とにかくこの体験が私の山小屋生活をお気楽モードの楽しいものから常に次の冬という脅威に追われるものへと変えた。

雪が溶け、畑で鍬を振り上げる度に汗が噴き出す。

労動の最大の報酬は川の流れに浸り冷たいビールを瓶から直接飲む....

北国の冬など誰もが忘れそうな夏の日にあっても私は2020年のこの日を忘れる事は無かった。

春から秋までの山小屋での滞在とは前の冬と次の冬の間でしかないのである。

木を切り、割って薪にするのはもちろんの事。

小屋にあるありとあらゆる隙間は目についた箇所から徹底的に塞ぎ、あらゆる冷気を遮断する....

だったらさっさと意地を張らずに断熱材でも貼れば良いのに、と思った方。

はっきり言ってあなたは正しい。

しかし私には断熱材を使うつもりはこれっぽっちも無く、それはこの場所を作った時から変わらない考えだ。(断熱材については記事が一つ書けるくらいの思いがあるのでそれはまたの機会に)

 

話を戻そう。

ある種の強迫観念ともとれる経験はキリギリスからヴァイオリンを取り上げた。

どの季節にあっても私は小屋の温度を1℃上げる事を考え続けた。

次の冬を越すために。

 

それがどうだろう。

今朝の目覚めは、凍りついた背中とも、朝日が登るのを待った長い時間とも無縁なものだった。

 

まるで当たり前かの様に、快適に朝日がカーテンの隙間から差し込む小屋の中で目を覚ました。

ロフトの窓を開ける。

ロフトの中よりも5℃は低いであろう小屋内の空気を感じ、このロフトに施した防寒対策の成功にニヤッとする。

小屋の室内はきっと氷点下だろう。

去年はこれより寒い場所に晒されていたのだ。

改めて自分の無知さが恐ろしくなる。

それでも私はやった、やった。

数ヶ月かけて、この山小屋の朝に温もりという概念が誕生した瞬間だった。

完全な個室、暖かなベッド。越冬への執念を感じる寝室だ。

 

 

私はこの小屋で色々な物を作る事を楽しみにしている。

器用さが伴えば良いのだがそうではないので何か作る度にこの小屋の景観を破壊しているのだが....

それでも懲りずにまたある物を作ろうとしている。

木を切り、削り、ビスで止める度に思う事があった。鉄を加工出来る様になったらどんなに良いだろうか。

この願望は長い月日にわたり胸の中にしまわれて来たが、今回ついに実現させる事にした。

今は通販サイトでありとあらゆる物が売られている。私はその中でも最も安い部類の溶接機を買うことにした。

格安の溶接機は働き者で、ここでの工作の幅を広げてくれた。

 

届いた箱を見ると配達業者の間違いかと思う程に小さいものだった。

この中にある物が強力なアークを発生させ2.4mmの鉄板同士を一つにするのだろうか?

 

溶接をするのは実に20年ぶりだ。

県内の工業高校で溶接を学んで以来、私はこの手の作業から遠ざかっていた。

もう二度とこのスキルを生かす事は無いだろう、

そう思っていたが20年の時を経て今再び鉄板に火花を飛ばそうとしている。人生とは本当に不思議な物だ。

小さな溶接機は芯棒を溶かし、切り出した鋼材を繋ぎ止めてゆく。

このささやかな山小屋鉄工所の第1作目はロケットストーブだった。

外のポーチにストーブがあったら良いだろうとは思っていたが既製品はほとんどが薄いステンレス製だ。

小屋で使う物には軽さは求めない、とにかく丈夫な物が欲しかった。

 

何か欲しいと思う物がある時、自分で作るという選択肢があるのはとても大切な事だと思う。特にこんな場所では。

使い勝手はどうだろう、完成したこのストーブを見てもその性能は未知数だった。

吸気口に扉を設けて火力の調整が出来る、とか煙突に作る五徳は持ち運ぶ際のハンドルを兼ねたものにしたい、とか幅をコーヒーの焙煎器に合わせようかとか、このストーブにはそんなアイデアを盛り込む事にした。

真冬の北国の屋外で行われる細かな手作業だ。

小さな失敗はいくつもあったが、完成したそれは確かにストーブの形をしている。

完成したストーブに火を点ける。

 

「ロケットストーブ」

その名に違わぬ炎の柱ががくべた枯れ木や端材達を飲み込み、ウッドデッキの屋根は熱を受け氷柱は滴が流れては落ちてゆく。

吹き込む風は冷たいが、その風が来る方向を見ながらある考えが浮かんでくる。

ウッドデッキの端に薪を積んだら薪棚兼、防風壁になるのではないのかと。

このウッドデッキは半個室になるし、薪を大量にストックしてこの採集生活から卒業出来るかもしれない。

ここで暮らしていると、稀に良いこと尽くめのアイデアが浮かぶ事がある。

一石二鳥、三鳥。まだ取らぬ狸の皮でしかないが、幸せな瞬間だ。

このストーブでは基本的に薪は燃やさない。

燃料は森から拾って来る枯枝だ。

小屋から20mも歩けば雑木の森があり倒木や立ち枯れした木がたくさんある。

枝が枯れて落ちると橇を引く障害になるので、森を散策がてら歩いては拾うようにしている。

割らずに使えてそこそこ火持ちが良い物が理想的だ。

出来れば腕の骨くらいの太さの物が使いやすい。 

ある時は焚き火用、またある時はコーヒーの焙煎用の枯枝を飲み込んだストーブの煙突からは炎の柱が高く上がっている。

ストーブの周りを囲むように雪は溶け、氷柱から落ちる滴の間隔は短くなる。

これは大成功と言って良いのではないだろうか。

強力な熱量、それに伴う燃費の悪さ。

ロケットストーブと言う名前に相応しい物が出来た。

金属を溶接出来るようになり、今まで妄想話でしかなかった様々なアイディア達が急に現実味を帯びてくる。

この溶接機が、これからの山小屋の発展に貢献してくれる事は間違いないだろう。

 

薪作りの話

冬の山小屋において、最も大切な物はなにだろうか?

食糧、寝袋、温かいブーツに手袋、お酒だって気分をリセットするために大切だ。(私の場合は常にリセットばかりしている気がするが)

そして何よりストーブた。

しかしストーブがあればそれで良いわけではない。

暖をとるためには燃料が必要だが、薪ストーブの場合は当然燃料は薪という事になる。

この薪の確保というのが、山小屋生活において非常に重要であり大変な仕事なのだ。

薪はどの様にして手に入れるか?

まず買うと言った場合、小屋から下った町のホームセンターでは、昨今のキャンプブームのずっと前から薪が売られている。

1束500円ほどだが、これは小屋の薪ストーブで燃やしてせいぜい3時間くらいの量だ。

寝袋に包まり寝ている時間を除いて常に燃やそうとすると5束は必要になる。2500円だ。

1日2500円という事は1週間で17500円、2週間居れば35000円という事になる。

もちろん燃えた後には灰しか残らないし、その灰の価値というのは限りなく無に等しい。

数日分の薪を積める様なトラックが無い限り、町のホームセンターまで毎日買いに行く事になるだろう。

とにかく私にはそんなお金も時間も無いので、最もお金のかからない「自分で薪を調達する」という方法を選ぶのは全く当たり前のことだった。

真夏以外は薪を燃やす。北国の山小屋生活は多くの薪を必要とする。

しかし大きな問題がある。

この小屋暮らしを始めた時、私の年齢は32歳。

かつて田舎を飛び出し、上京したのは18歳の春だった。それから14年間東京で暮らしていたので人生の半分は都会暮らしをしている事になる。

ここで過ごした18年間だって、文明に浸かった少年時代だった。

つまり山小屋生活を始めた時点の私は、自然の中で暮らす知恵も技術も特に持っていなかったという事になる。

1年目の大きな失敗の1つは、準備する薪の量が少なすぎたという事だった。

当時の小屋にはまだ玄関前に小さな屋根があっただけだ。

そこには申し訳程度の薪が積まれているだけで、私はその薪だけで合計20日ほどになる冬の滞在を乗り切ろうと思っていたのだった。

知らないという事は命を落とす理由にじゅうぶんなり得る。

 

しかし自分の無知さを嘆いても薪の山は高くならない。

私は廃材で作った橇を引き、森へ入り立ち枯れした木や燃やせそうな枯れ枝を探した。

その日暮らしの薪集めというのはあまり聞いた事が無いが、やらないわけにはいかないのでほとんど毎日、橇を引いては森に向かった。

そりにチェンソーを乗せて森へ枯れ木を探しにゆくのは冬の山小屋生活の日課になった。

 

ずいぶん話が脱線してしまったが、今年は去年の反省を活かして小屋には立派な屋根付きのウッドデッキを作った。

そこには去年の3倍は広い薪棚があり、春のうちに天井まで薪を積んでおいた。

しかし、予想外に夏が寒かった事と子供達とずっと山小屋滞在を共にした事で、冬本番を迎える頃にはずいぶんの量の薪を消してしまっていた。

結局、この冬も私は橇を引き、森へ枯れ木を求めて入ってゆく羽目になってしまった。

しかし、枯れている木でも中は乾燥しきっていない薪に適さない物もあった。

そうなると時間も労力も無駄になり、薪も増えない。

つまり、薪というのはいくらあっても多いという事は無いのだ。

私は来年のため、たくさん薪を作る事にした。

出来れば薪棚も新しく作りたい。

そのためには森にある大きな木を切り、運び、割り、乾かす必要がある。

私はこの冬の滞在中に、大きなミズナラの木を一本切り倒しておく事にした。

冬は雪があるので木を切るのに適さないと思っうかもしれないが、冬のうちに木を切り倒す事のメリットは多い。

まず、広葉樹の場合葉が落ちているのでその分軽い。そして風の影響を受けにくい。

枝を焚きつけとして利用する事を考えても、葉がない方が作業がずっと楽になる。

それに雪解けの頃から、木は新芽を伸ばすために地中の水をどんどん吸い上げる。

つまりそれ以前に切ってしまえば作業も楽に、乾燥にかかる時間も少なくなるというわけだ。

とりあえず冬のうちに切ってしまって、ゆっくり薪にすれば良い。

 

言うのは簡単だが、この場所で木を切って生活するという事はある決意を伴った。

私の小屋を出て森へ向かい、ちょうど川の岸と左手に広がる山の斜面がぶつかるあたりだ。そのミズナラの大木は二股の幹を青い空に伸ばしている。

深い皺が刻まれたその幹は、私の生活圏である川沿いの道と山へと向かう坂とを明確に分けていた。

周りのもっと若い木は切られていて、大きなそのミズナラの木の存在感をより一層大きくしている。

私はそのミズナラの木を切る事ができずにいたのだ。

斜面の方に傾いているようにも見えるが、また別の角度からは川の方へと傾いているように見えるその木は、私の頭上のはるか高くに幾重も枝を蓄えている。

根元で数センチ狂ったズレは、枝先では数メートルになるだろう。

もし、川岸の木にかかってしまえばもう私の手には負えない。薪になるはずだったそれ達はたちまち山小屋生活の脅威となる。

そんな思いもあり、私はこの木に手を出せないでいた。

しかしこの木を切らない限りはその後ろの木も横の木も薪になる事はないだろう。

山小屋生活を続けるならば避けて通れない相手だ。

切ると決めた日の次の朝、私はいつもより早く起きた。

チェンソーの刃を丁寧に研ぐ。

このチェンソーのガイドバーの長さは35cmだが切る予定の木の幹は45cmはある。

私は30分かけて納得のゆくまでソーチェーンを仕上げた。

深く積もった雪をかき分けてその木へ向かう。

手にはプラスチック製のスコップとハスクバーナ135 eだ。

赤いマジックで受け口を描く。

数日前にプラグを替えたばかりのエンジンは1発で始動する。

ストローク特有の音と匂いは、赤い線を白い木肌と切り屑に変えてゆく。

受け口が出来た幹は口をパックリと開けている様でなんだか間抜けだ。躊躇する事なく追い口に向かう手に力を加える。

ある所まで切り進めた時、パッとチェンソーを引き戻す。

 

その瞬間はアイドリングの音が聞こえないくらいに静かだった。

足元の幹の繊維がちぎれてゆく微かな音が聞こえる、その一つ一つはやがて断末魔の叫びとなり倒れてゆく。

枝が空気を切り裂く音が聞こえる。

世界が大きく揺れ、その後にやってくるのはいつもと変わらない静かな森の景色だ。

見慣れないのは斜面に横たわる木と、今朝まではこの森に無かった巨大な切り株だ。

チェンソーのエンジンを止めて切り株の上に立つ。

長い幹はここしかない、という川と道の間に真っ直ぐ伸びている。

上手くいった。

たまたまだろうか?

私はまだまだ木の伐採について未熟で無知だか、少なくとも成功する様に考え、それを実践した。

この木は私が望んだ方向へ、望んだ様に倒れてくれたのだ。

切り株に少し、お酒をかけてやりたい。

小屋に残っていた日本酒を取りに戻る。さっきまではるか頭上にあったミズナラの枝は私の目線の高さにあり、そこにはいくつかドングリがぶら下がっている。

落とされないよう、母親にしがみつく子供の様だと思った。

私が今切り倒した大きなミズナラの木は、何百ものドングリ達のお母さんだったのだ。

命を奪い、初めて相手を理解したような気がした。

申し訳ない気待ちはもちろんあるが、私もここで生きてゆくために切らねばならない。

飲みかけのお酒を切り株にぐるっとかけ、この枝の一本まで無駄にしないよう誓った。

大きなミズナラ。巨木が倒れるときは独特の緊張感がある。

 

 

ドラム缶風呂の話

長かった冬の山小屋滞在。

やった事。見た事。思った事。

様々な体験がたくさんあり、その一つ一つが厳しい冬の素晴らしい思い出達だ。

その中でも、記憶深くに刻まれたある夜の事を記してこの日記の最後にしたい。

 

山小屋に必要な事ってなんだろう。

 

もしそう聞かれる事があれば私はこう答えたい。

「ワクワクする事」だ。 

一晩で真っ白になった朝の森を歩くのはワクワクする。

パチパチと音を立てて小屋を暖めてくれるストーブもワクワクする。

そこで飲むビール、屋根裏風のロフト、手作りの床、氷柱のハイボール、小さな階段、暗い地下室、小さな畑、そこに植えたリンゴの木、夏の夕立、そしてランタンに照らされた子供たち。

 

小屋を恋しく思い、この生活を続けたいと思う理由はこのワクワクだ。

雑木の森の隅にある小さな小屋の周りには欲しい物全てがある。

ここは忘れられた場所だった。

欲しい物は欲しいと思った物を作れるその場所自体だ。

 

その愛してやまない森を見渡せるようなウッドデッキを作った。

そしてそのウッドデッキの上には、青いドラム缶が置かれている。

 

山小屋の風呂は露天風呂。

オイルが入っていたドラム缶に、薪を燃やしてお湯を沸かすボイラーをつなげたその風呂は、去年の春に作った物だ。

秋には子供たちが入って大いに喜んだ。

ドラム缶のお風呂なんてマンガでしか見た事が無かったので、水を溜めているうちからもうワクワクする。

厄介な掛かり木を2本片付けたその日、ひどく疲れた私は雪の中、そのボイラーに火を入れる事を決めた。

ボイラーと言っても、ガスの家庭用ボイラーとは違ってスイッチ一つで熱いお湯が出てくるわけではない。

手の切れるような冷たい水を溜め、ボイラーに詰めた枯れ枝にマッチで火を点ける。

設置の際にミスをいくつかしたこのバスタブは、中でお湯が循環しないので何度か木の枝で攪拌してやる必要がある。

とにかく、この風呂に入るというのは途方もなく手間がかかるのだ。

近所の温泉に歩いて行った方がよっぽど早くて安上がりだ。

ではなぜ今、ドラム缶風呂の支度をしているのか?

ワクワクが止まらないからだ。

マイナス15℃の雪景色の中、狭いドラム缶にはられた熱い湯。

考えるだけでなんと待ち遠しい。

張り詰めるほど透明な空気に湯気が登り始めた頃、森は夜の気配を纏っていた。

私はありったけの根性を振り絞って裸になる。

薄暗い雪景色の中、裸の人間がいるのは不思議だな。なんて事を思って少しにやけていると、一気に強烈な寒さが襲う。

慌てて入るドラム缶の中は熱湯かと思うほどで浸かった部分がヒリヒリする。

戻るも地獄、進むも地獄のこの状況、ならば進もう。

やっと湯温に慣れ、ひと息つこうかと思った時私は大変な忘れ物をしている事に気がついた。

夏のうちに玄関ドアの横に作った小さな戸棚。

そのうち何かを入れようと思い作ったのだが、何も入れる事が無いまま冬になってしまった。

冬になりようやく外で飲むためのビールを冷やしておく棚、というなんとも泣けるほどにささやかな役目を得たのだった。

その戸棚は自分の仕事をしっかりと守っている。

その中には地ビールが数本、他にも缶チューハイがいくつか入っているはずだ。

ちょうどドラム缶風呂から正反対の場所にそれを取りに行かなければならない。

わずか5mほどのその距離が50mにも感じられる。

それでも、どうしても取りに行かないといけない。

雪の中、日暮ゆく森を眺めながらドラム缶の風呂に入るなんて。こんな生活をしていてもそう何度も体験できる事ではないだろう。

そんなチャンスにビールが無いなんて。

凍りつく寸前まで冷やされているであろうビールを求めて私は再び凍える空気に裸を晒した。

先ほどよりもずっと心地よい温かさを感じながら、私は細長い缶の中に体を滑らせてゆく。

アルミ缶のタブが弾けるような音を出して開けられる。

熱い湯の中にいる私の熱い腹に、想像通りよく冷えたビールがなだれ込んで来る。

あまりにも冷たいので腹の中でも泡の1つまで感じ取れそうだ。

顔面は冷気に晒されてて強張る。

凍りついた冬の山で、この小さなドラム缶だけが暖かい場所だ。

それをお湯をたっぷり含ませたタオルで溶かしてやる。

チャポンチャポンという音。

力強い湯気が途切れることなく登ってゆく。

そしてまたビールを口に含む。

冷たさなのか、炭酸の刺激なのか。強烈な感覚が喉を駆け抜ける。

それからうっすらと青みがかった景色が、深くなってゆくのを時間をかけて楽しんだ。

それなりの酒飲みならば、それぞれビールの美味い飲み方を持っているだろう。

私はあの冬の日に飲んだビールの味を超える体験をまだしていない。

 

今回の「冬の小屋暮らしを振り返って」という記事ですが、書き終わったのは山小屋にも梅雨が訪れた後になってしまいました。

情けない話ですが、暑い夜に寒い山小屋を想い涼しんでいただけると幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冬の小屋暮らしを振り返って(前編)

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山小屋への帰還

山小屋のドアを開ける。

このドアは今年の夏に作った物だ。赤みがかったマホガニー色に塗装されたこのドアを取り付けた時の感想は、「これで熊が来ても壊れないドアになった」というなんだかズレたものだった。

夏の間は湿気を吸い少々窮屈そうに開閉していたこれは今、冷たく感想した空気に晒されてキイキイと申し訳なさそうに蝶番を鳴らして開いた。

鎮まりかえった室内は11月にここを去ったあの日から何も変わらない。

指先が痛くなる様な寒さを除いては。

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ウォータージャグに残った水が凍っている。

カーテンを開ける、窓から見える景色もまた、前回の滞在までに見た物とは様子が全く違っていた。

さっきまで雪のなか、キツネがつけた足跡を辿ってここへやって来たはずなのに、この窓から眺める枝を白くした木々が冬の山小屋へと帰って来た事を強く私に思い知らせる。

 

まずは何をしようか。

 

普段より少しだけ小屋を離れる間隔が空いてしまったせいもあり、これから始まる雪の中の暮らしに気持ちが早まった。

やりたい事はいくらでも考えて来たのだ。

晴れてはいるがこの寒さだ。夜に備えて今のうちに少し小屋を温めておきたい。

ストーブに火をつけるのが最優先なのは去年も今年も変わらぬ冬の鉄則だ。

この小屋の西側の壁から煙突は出ている。

取り付けが悪く、ここへ帰ってくる度に外れている姿を目にしていた。この煙突を直す事は今回の滞在でやりたい事の1つであり、最も重要な仕事だった。

ステンレス製のシングルの煙突は固定具によって小屋の屋根に取り付けられている。

屋根は固定出来る場所が限られていてバランス良く固定出来る事が出来ておらず、風が強く吹けば横引きから縦引きに変わる境目で接続部が抜けて外れてしまうのだった。

今回真っ先に取り掛かった作業では

 

•縦引きをしっかりと固定し強度を上げる。

•接続部を掃除のしやすい十字型の物に替える。

•どうせ強度をあげるのならば縦引きの長さを伸ばして煙突の性能を上げる。

 

という目的があった。

もっと早くやらなければいけない仕事で、その必要性は充分に分かっていたのだがなんとか使えてしまうのでついこの日までそのままにしてしまっていたのだった。

丸太から製材をしたりクリスマスツリーを作るための流木を集めたり、新しい焚き火スペースを作ったりと楽しい作業がたくさんあった。

それらに比べると、よく外れる煙突の修理というのはどうしても魅力的には見えないものだ。

呑気な性格も災いしてまさに必要な時になってやっと取り掛かってしまった。もしここで何か不測の事態が起こって直せなかったら?いったいどうやって初日の夜をやり過ごすつもりだったのだろう。

色々な事を後回しにしてしまう性格を恥じながら、それでも順調に作業は進んであっという間にガタつきの無い高く伸びた煙突になった。 

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ここで最初に火をつけたのはミズナラの樹皮だ。ここの床板を貼った際に柱用に切り倒したミズナラを材木にした際にたくさんの皮が出た。それを集めて乾かしておいたのだ。自分で切り倒した木の皮を自分で作ったナイフで剥いで材木にした。その時に出た皮が今から燃料となり私を温めてくれる。

切り倒した木を、どこも無駄にする事なく使い切った事がたまらなく嬉しい。

樹皮とはいえ楢の木だ。鎧の様に分厚いそれは薪の代わりに充分なるのだ。

マッチで火を点ける。

白い煙は始めだけミズナラ独特の甘い匂いを室内に残し、すぐにストーブの奥へと吸い込まれて行った。

 

小屋でのトイレ事情

天気が良いうちにもう少し作業をしておこう。

作業上着のポケットに缶ビールを入れると集成材のボードの最後の一枚を持って外に出た。

内壁が張られていない箇所はポリカの波板の外壁が剥き出しで外から光が入って来る。

いわば天窓の様な役割を果たしているのだが、なかなか面積が広く光と一緒に冷気も入って来る。日が暮れると光は入らなくなるが冷気はより一層入ってくる、という困った壁だ。

最低限の採光だけ残してあとは塞いでしまおう。

丸鋸を取り出して、測った長さに切り出しながら今年もトイレを作らなかったな、と思う。

 

去年の冬、トイレといえばスコップと紙だけで私は地吹雪の中で下着を下ろす度に春になったら、とトイレの作成を強く心に誓ったものだ。

その春が過ぎて、森にひぐらしの声が聞こえ始める頃には私はもうすっかりとこの開放的なトイレの楽しみを知ってしまっていた。

この夏一緒に滞在した子供たちがまだ寝袋から出られないでいるうちからスコップ片手に今朝の特等席を求めて鼻歌交じりに森を歩いた。

秋になり、冬の足音が遠くに聞こえるようになっても今日は冷えるな、などぼやきながら少し小屋の近くに穴を掘ったりして誤魔化していた。

 

ネズミとの奇妙な共同生活

明日の朝の不安を朧げに抱えながら、私は光を遮る様に内壁を貼った。

まだ窓から光が入るので滞在するにあたり必要な準備をする。

食器棚やテーブルの上、ロフトの中を箒で掃く。

その途中たまにネズミの糞を見つける事がある。

ここのネズミたちと私の奇妙な共同生活は、一昨年の春ここにあった登り窯を解体した際に夜食として買ってあったカップ麺を齧られた時から続いてきた。

私は駆除を試みて小屋を去る時、殺鼠剤を置いて街へ戻った。

その夏に小屋へ来ると形はそのまま変わり果てた色になった殺鼠剤が残り、場所が悪かったのかとそれから幾度か仕掛けるもののネズミ達は居なくなるどころか、しばらく経つにつれ小屋を走りまわりピンク色の殺鼠剤を美味そうに食べている。

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駆除しているのか飼っているのか分からなくなってしまった。

気にならないと言えばならないが、この先何を齧られるか分からない。ネズミ問題もこの滞在中に解決したい問題の1つだ。

小屋が抱えた問題の事ばかり考えていると気分が暗くなる。私は雪の中に放り込んでいたビールの事を思い出した。

雪景色の焚き火  

ちょうど片付けも終わる頃だ、焚き火を熾そう、ソーセージを焼こう。

喉がすっかり乾いていた事に気がつくと火を熾す準備にも気が急いでしまう。

ビールが飲みたい。

焚き火場に積もった雪、その下に積もった枯葉を退かして火格子を取り出す。

またいくつか楢の樹皮を持ってきて並べそれに火を点ける。

森らしい濃い木の匂いが雪景色に立ち込め私はいよいよここへ帰って来たのだと思う。

すぐさま缶ビールのタブを開けひと口流し込むとため息が漏れる。

湯気のように白い息が雪景色に立ち登ってはすぐに消える。さっきよりもずっとちいさな白い湯気が再び上がった。

火はすっかり熾火だ、楢の樹皮を一掴み火に焚べてソーセージを串に刺す。

これは街の精肉店自家製のチーズソーセージで、私の従兄弟に教えてもらったものだ。チーズが練り込まれていてたっぷり入ったニンニクと胡椒が美味い。

串に刺してこの愛すべき火で炙る。

夜の青と炎の赤が紫色の景色を作りだしている。

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パリッと焼けた頃に口に含む。

熱い肉汁が溢れて火傷するが構わない。

二口、三口と口に押し込む。すぐに冷たいビールが入って来るのは明らかだ。

腹が減っていたんだ、いくつか焼いては食べ、最後にビールを大きく飲み込む。白い息が長く伸びた。

こんな時間はいつ以来だろう。

あたりはもうすっかり暗く、小さくなった熾火が焚き火場のレンガを暗く照らしている。

父のガスストーブ

急に冷えを感じた。

ドアを開けて中へ入ると七輪の前に座った。すっかりガスを出し切った煉炭は赤々と燃えている。

網を乗せて今日の夕食にと買ってきた焼き豚を並べて待つ。なんだか静かすぎる手持ち無沙汰な時間だ。

そうだ、雪の中から缶ビールを掘り出すのは実に楽しかったがそれにも劣らない楽しみがまだあったじゃないか。

窓へ向かいカーテンの中へ潜り込む。窓ガラスを開けると川の音が一層大きく聞こえる。

目の前に伸びた氷柱の中で1番大きな1本に出来るだけ根元から折れる様に背伸びをして手を伸ばす。

ハイボールグラスを1つ取り出す。

これはここから下った街の福祉のリサイクルショップで1つ80円だった物だ。5つも買ったせいで小屋にはこのグラスがたくさんある。

細長いグラスに合わせて氷柱を折る。

少し濃くなる様にジンを注いだら、トニックウォーターは泡立たちすぎない様に氷柱に沿わせて流し込む。

並々としたグラスの上で細かい飛沫が躍る。

美味いだろう。

飲む前からわかっている。何より見た目が良いな、と思った。細長いグラスの中に立つ細長い氷がはどれも全く透明だった。

屋根の上にあった物を口にする事に対して意見をもらう事もあるが、そもそも清潔な物を求めるならばここには来ないだろう。

埃っぽい小屋は1週間も暮らすと鼻の中は真っ黒になるし、寒さと乾燥で喉を痛めるかもしれない。

そんな環境で暮らすここでの生活が好きだ。

快適さと便利さから少しだけ距離を置き、自分自身も自然の一部だと感じられる。

つまり私にとって小屋暮らしとは、氷柱の入ったグラスでジントニックを飲む様なものなのだ。

食事を終え、ぼんやりと考え事をしていた私はある箱の存在を思い出した。

今日、ここの近くにある父の仕事場で使えそうな金具、ありとあらゆるガラクタ達を漁っていた時の事、本棚の上に小さなボール箱を見つけた。

何かキャンプ用品の様なイラストは埃でハッキリと見えない。

空箱だろうと思いつつも何気なく伸ばした手には、意外にも金属的な重さを感じた。

小屋へ着いたら開けてみようと荷物の中に入れて来たのだが作業に追われてすっかり忘れてしまっていた。

その箱を取り出す。

埃越しにPEAK1という文字とガソリンストーブのイラストが見える。箱の様子からしてずいぶん年代物の様だったが、埃の積もった箱の上蓋一枚隔で隔てられているその中身は拍子抜けするほど綺麗だった。

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本体は使った跡が無く、説明書も綺麗にたたまれている。保証書の判の日付は私がまだ何歳にもならない頃の物だ。

確かにこのストーブを父が使っている記憶は無い。それはこの箱を見れば明らかだ。

なぜ使う事無くしまわれていたのかは今となって知る方法は無いが、この新品でありながら年代物のストーブの箱はまるでタイムカプセルの様だ。

今ここでかつて父がいた時間に触れている様な気がした。

若い頃の父の姿が蘇る。

きっとまだ、病気を患う前の父が街へ出かけ、これを買って、そのまま箱の蓋を閉じたのだ。

ポンピングしてみるとスカスカと空気が抜けるが、カップを替えればすぐに使えそうだった。

私はこのストーブに30年ぶりの火を灯す決心をした。

 

外に出てもう一杯だけ飲んだ。

真っ暗な森が雪のせいで奥までぼんやりと見える。

割りものも無くなったのでそろそろ寝よう。

寝る支度を簡単に済ませてロフトに潜り込む。

ストーブの熱がこもる1番暖かい場所だ。

去年の夏から、ここで過ごす時間の大半を冬への備えに費やして来た。

流した大粒の汗の分だけビールが美味い真夏にありながらもその冬の体験は一種の脅迫概念として私の記憶に留まる事になった。

 

この小屋に泊まるようになってしばらく、担架から持ち手部分だけを取った様なキャンプ用品のコットというものに寝袋を乗せて寝ていた。

秋になり、目の前に迫った寒さを思うとこのまま見過ごせない問題がある事はすぐに分かった。

素晴らしき冬の山小屋での初夜は新調したエアーベッドの上で過ごした。

夜中に目が覚める。

土間のレンガの上でももう幾分か暖かいだろうに。私の背中は錆びたスコップの様に冷え切っていた。

中の空気に対流が起こり、体温が床に吸収されるためエアーベッドは基本的に寒い物らしい。

 

私は何も知らなかった。今でも知らない。

微睡む、階下からはパチっと薪が爆ぜる音が聞こえる。

暖かさという幸せに包まれながら私は深い眠りに落ちた。

 

最後に

しばらくぶりにブログを更新しました。

いつも書きたいとは思っていたのですが、文章を書くのが遅い私にとって文字のみで見てきた物、その感動を表現するのは簡単な事ではなく、つい遠ざかってしまっていました。

たーぼの山日記はこのブログから始まりました。日記と言うくらいですから、ノートに書いた思い出の様に後から読み返せる必要があるわけです。

TwitterInstagramを更新する際にも、小屋暮らしの裏側を書いていますが、SNSという性格上なのか私の性格上なのか、つい格好をつけてしまう事がよくあります。

本当の事を話すべきかしまっておくべきか、分からない時はここに記したいと思います。

たーぼの山日記は、古い知り合いに返し忘れた古い手紙の様に。

思い出した時、その時に考えた事をひっそりと書き残したいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私が廃材でボロ小屋を作る様になった理由

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はじめに

故郷にある父の窯小屋を暮らす事ができる場所にしようと考えた時から決めていた。

何も参考にせずに思うままに、自由に作ろうと。

 

あまりこんな事を書いては自分語りのようで嫌なのだが、色々と思う事があったので記録のために書かせてほしい。

 

使う材料は父が残した大量の廃材や古材に、小屋の周りに生えている木々。

工具は最低限の物しか無い。

父の仕事場にあったノコギリとハンマー、中古で買った電動工具が少々。

DIYの小屋作りの指南書に載っている立派な材料も道具も無い。

そんな本は私にとって全く縁の無いだった。

 

父の死

2011年の春の初め、父が亡くなった。

長い間病気を患い、少し前から具合が悪くなり市内の入院していた。

当時私は東京に住んでいて、亡くなる数日前に田舎へ帰り病室の父に面会した。

これが会うのは最後になるだろうとは分かっていたが「また来る」と言い私は東京へと戻って来た。

 

その2日後の明け方。

目が覚めると、窓の外には季節外れの大粒の雪がゆっくりと、ゆっくりと降っている。

今、父が亡くなったのだと分かった。

目を逸らす事が出来ずにその真綿のような優しい雪が暗い色の雲から降りてくるのを眺めていた。

1.2分ほど降り続いただろう。

雪が止むと電話が鳴り、母から父が亡くなったと改めて伝えられた。

数日前に容体を見たからなのか、不思議な雪を見たからなのか、驚く事は、無かった。

とにかくその日に片付けなければ行けない仕事を済ませて、仕事仲間に2.3日田舎へ帰る事を伝えた。

新幹線に乗り実家へ着くと、親戚が集まり通夜の準備をしていた。

私にはその光景がなんだか他人事の様で、現実では無い光景を眺めている様な気がした。

葬儀が済み、火葬までの何日かはただ酔っているのか二日酔いなのかすら分からない状態が続いた。

やっと火葬が終わり、酒臭い体を洗い流して少し休もうと実家に帰る。

傾きかけた日差しが差すリビングに入ったその時。

 

わずかに家が揺れた様な気がした。

そう思った瞬間、強い衝撃が家全体を揺さぶり壁がミシミシと音をたてる。

避難も何も出来ない、不安な気持ちで天井を見上げて、ただ、ただ、立ち尽くしていた。

焦ったり立っていられなくなるというのはフィクションの中だけだ。

どうする事も出来ない。声を出す事すら許してもらえず、気分の悪くなる時間を無力に耐えるしかないのだ。

どれくらい続いたのか分からないが、今まで経験した事のないくらいに激しく、そして長く揺れた。

何が起きたのか知るためにテレビをつけた。

地震のニュースをやっている!

やはりかなり大きかったのか、と思ってテレビに近づいた瞬間、テレビは暗い画面に戻った。

停電か。

結構揺れたし、電線が切れたのかな?

と、その時はそれくらいしか考えず2階のベッドに倒れ込んだ。

しかし、冷蔵庫も給湯器も、それ以降動く事は無かった。

 

少しして目を覚ましたのはメールを受信したケータイの受信音だった。

何件か来ているな、と思い上から順に開く。

どれも東京の知り合いから、私の安否を気遣う内容だった。

たたが地震で大げさな、としかその時は思わなかった。

情報が遮断されたせいで何が起きているのか分からなかったのだ。

夕方になっても電気は点かず、室内は静かな薄暗さに包まれ始めた。

 

何かほしい物があると、昔から父の仕事場に行った。そこにある物はほとんどがガラクタだが、探せば何かが必ず出てくる。

 

キャンプ道具を漁ってみると、箱の中から古く、そして懐かしい匂いがして、小さい頃にキャンプや車中泊に連れて行ってくれた時に使った記憶が蘇る。

曲がったロウソクやプラスチックの皿の他にガスのランタンやストーブがあった。

これらは停電生活で 大いに活かせられるだろう。

これらを母屋へ持ち帰りテーブルの上に乗せて点火しようとする。

果たして15年以上前に使って以来そのままの状態である。うまく着くだろうか?

点火スイッチのカチッという音が聞こえた瞬間、オレンジ色に照らし出された不安そうな家族の顔が、おー。という安堵の表情に変わった。

シュー、とガスが燃える音と熱になんとも言えない安心感を得た私たちは、やっとまともな会話をする事が出来た。

何か情報が欲しいとラジオをつける。

ニュースは、地震、そして津波のニュースを伝えていた。それでもどんな事が起こっているのか、この時はほとんど分からなかった。というよりあんな現実を想像する事などは無理だったのだ。

他に何か情報がないかとチャンネルを動かす。

ノイズだらけの放送はうまく聞き取れないが「...Radio...activity .....」という単語が頻繁に聞こえる。

なぜ放射能の話をしているのだろう。

言い表しがたい不気味さが昨日までよりずっと暗い部屋を支配する。その夜は1階で皆一緒に寝る事になった。

次の日の朝、また東京の知人から連絡が入る。私がいる県で起こっている事の映像がニュースで流れたのを見て再び連絡してくれたのだ。

このやりとりで何が起こっているのかかなり理解できた。どうやら私たちが理解していたことよりもずっと状況はひどいらしい。東京に帰る手段を探して欲しいと頼むと「おそらく無理だろうが」という前置きがありつつも引き受けてくれた。

こうなってしまった以上東京には帰れず、特にやれる事はない。

幸い食料は買ったばかりであったし、ガスも水道も問題ない。暖房は薪ストーブを使っているのでこれでお湯も沸かす事が出来る。

困ったのは電気だ。ケータイの充電が不安だったし、買い込んでいた食料をどう保存しようか。

(※話が脱線してしまうが、これは是非書かせてもらいたい。田舎の家というのは基本的に土地が広く、母屋の他に小屋や納屋がある家が多い。

これらには薪や道具類などをしまっておく事がほとんどだろうが、私の経験上それらの他に不用品やガラクタが置いてある。

しかしそのガラクタは平時の私たちにとってガラクタなのだ。このような非常事態ではガラクタやゴミも役に立つ事がある。私の家では冷蔵庫が使えなくなった後、クーラーボックスに入りきらない分は発泡スチロールの箱を見つけてきてそれに入れた。

それに薪や、チェンソーや刈り払い機用のガソリンもいざとなれば燃料として使えるだろう。

現在は私は都会に住んでいる。マンション暮らしである。

都会の住宅というのはほとんどが狭い。それには居住空間以外に無駄なガラクタや廃品を取っておくようなスペースなんて無いのだ。何かを買ったら何かを捨てないといけない。これは何かに使えそうだから取っておこう、という事が出来ないのは、あまり表立って見えて来ない都会の災害への脆弱さの1つだと思う。)

 

被災地へ

話を戻そう。

当分の生活はなんとかやっていけそうだし、仕事も出来ないのでしばらくのんびり休む事にした。

昨晩は1階で寝たのでゆっくり休もうと2階に上がりベッドに横になった。

うとうととしているとメールの受信音で目が覚める。

開いてみると仕事の依頼だった。

私は当時、フリーランスでマスコミの仕事をしていて、メールには被災地の取材をして来るようにとの依頼が書かれていた。

最低限の仕事道具は持って帰って来ていたし、出来ないことはなかったが、色々と問題もある。

最も大きな問題はガソリンだ。関東と違って東北は広いのだ。同じ県でも海から離れているのでうちは停電くらいで済んだのである。

津波の取材となれば250kmくらいは走る事になるだろう。

正直あまり乗り気ではなかったがうまく断る事が出来ず、ガソリンの調達に奔走する事になった。

なんとか準備をして父が乗っていたジムニーに荷物を積み込み、車の全くいない道を走り始めたのは夕方になってからだった。

 

かなり走っただろう。

すっかり日が落ちてあたりは青い風景に変わっていた。

その暗闇の中、急に見慣れない光景が対向車のライトに照らされる。

おびただしい量の瓦礫だ。。。

海のある街からはまだ20km以上あったが、津波が川を伝って瓦礫を押し流して来たのだ。

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車を止めて降りてみる。あたりは泥と瓦礫の匂いだ。これからまだまだ海に向かって走らないといけない。いったいこの先はどうなっているのか、暗闇のせいもあり、得体の知れない恐怖が車と私の思考を停止させる。

 

朝になり、再び車を走らせる。

1時間もせずに海の見える場所に着いた。

何度も来た事がある場所だった。

面影が無い、と言うことはなく、街は私が知る景色のままだった。

しかし、そこには瓦礫や潰れた車、色々な漂着物が至る所にあり、異様な光景となっている。

海岸沿いは黒い更地になり、所々煙が上がっている。

これらがこの震災の本当の姿だったのかと思い知らされた。

こうなったらとことん行こう、車に乗り込みさらに南へと向かった。

通れる道は限られていたが、他の車について行きながらなんとか走る。

帰りの燃料の事を考え、広場に車を停めて後は歩く事にした。

歩きながら峠を越える。まだ海は見えない。見たくなかった。

ずっとこの坂が続いてほしい、そう思った。

一台の車が私を追いぬいた所で停まり、声をかけられた。この先に行くのなら乗って行けと。

なんと答えて良いのかわからず、とにかく助手席に乗り込み話を聞いた。

乗せてくれた方は60歳くらいの男性で、奥さんが行方不明にになっていたそうだ。

避難所をいくつも周り探していて、この先に残り最後の避難所があるらしい。

私の一緒に探したいと言う申し出を承諾してもらい、このまま避難所へと向かう事になった。

公民館だった場所に出来た避難所にはたくさんの人達がいた。そしてその人達を探しに来ている人もたくさんいた。

大きな板にそこに避難している人の名前が張り出されている。あまりに数が多いので手分けして奥さんの名前を探す事にした。

1人1人、何度も読んだ。1人違う名前が過ぎてゆくたびに心臓が嫌な音を立てて、腹が捻れそうになる。

早く見つかれ、早く見つかれ!

気がついたら名前を声に出していた。そして、私達はもう4周も同じ場所を回っていた。

ここにいる人がみな同じ気持ちでホワイトボードを睨んでいると思うと、恐ろしくなりこの場から逃げ出したくなった。

私を乗せて来てくれた男性に話しかけると、妻が見つからなかった場合はここに残りボランティアをするつもりだった、との事だった。

私はかけるべき言葉が見つからずにただ、お礼を言いその場をあとにした。

避難所を出て、坂の上に出ると景色がひらけていた。

私の脳裏にある写真が蘇る。

10年以上前に見た小学校の歴史の教科書に載っていた被爆後の広島の光景によく似ていた。

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市の中心地だった開けた場所を歩く。

丈夫な鉄骨作りの建物だけが辛うじて残っているが、ショッピングモールは骨組みだけが残り、瓦礫は屋上にまでへばりついている。

いくつかの道路は瓦礫がどかされて、1車線程度の広さだが消防や自衛隊の車両が通れる様になっていた。

所々に取り出された畳が引かれていて、その上に毛布のかけられた人達が横になって並んでいる。

毛布から覗く足は濡れた黒い泥にまみれていて、もう動く事は無い。

 

身元の分からない人の所には赤い旗が立ち、時折毛布をあけて顔を確認に来る人がいる。

潰れた車や家屋にも赤い印がつけられていて、そこには重機がやって来るのを待つ人達がいるという事が分かった。

街のほとんどが瓦礫に埋もれてしまっているので、その上を歩かなければいけない。

もしこの足の下に誰かいたら、と思うと踏み出す一歩が躊躇われる。

このあたりはまだ消防の捜査も入っていないのだろうか、被害に対して赤い旗が見当たらない。

しかし、分かってしまうのである。

すぐに見えなくとも、残された人がいる場所が分かってしまうのだ。

津波が来てからの数日、3月にしては暖かく、その日もまさに春らしい陽気であった。

そのせいで街中にたちこめる潮と瓦礫の埃っぽい匂いとは別の匂いが所々にあり、はっきりとそこに人がいる事を知る事が出来てしまう。

望まなくても瓦礫の下や潰れた車の中にいる人を見つけ、思わず手を合わせる。

これ以上ここを歩いてはいけないと思い、戻り捜索隊に先程見た事を伝えた。

道路の脇には瓦礫が山の様に積み上げられていてまるで迷路の様だ。

その角を曲がるたびに見つかった人達が並んでいる。毛布をかけてもらっているが、明らかに小さなシルエットもあり、その目が最期に見た光景を想像するとただ、辛い。

この人達全てに家族があり、つい2日前まで当たり前の日常を生きていたのだ。

それは当たり前の事だが、とても恐ろしい事の様に思えて今はどうやってもそれを受け入れる事が出来ない。

 

もういい、もういい。

 

無力な私がここに居て出来る事は無い。

それから数日の間は余震が続き、その度に津波警報が出された。サイレンの音はこの光景が再び繰り返す予告の様で恐ろしかった。

 

帰る日の事はあまり覚えていない。

残りの燃料などは気にせずひたすら走った。行きと反対にだんだんと景色が見慣れた物になってくると、ここが現実だという実感が湧いてくる。

すっかり今までと変わらぬ景色となり、1番最初に見かけたラーメン屋に入った。

ロクに食べていなかったせいか、運ばれてきたラーメンの湯気がもう美味い。

熱々のラーメンをすすり、やっと目に前の光景が現実のものであると思えるようになった。

家路につく道は来た時と同じだが気持ちは全く別物だった。トボトボと、トボトボと。何もする事が出来なかった負け犬の後ろ姿だっただろう。

家に帰り、数日間電気のない生活が続いたがそれはあっさりと終わった。急に送電は復旧し、私たちは再び今までと変わらぬ文明社会に戻っていった。

 

この数日間、私たちの消費生活はいかに脆い均衡の上に成り立っているのか痛感したが、薪ストーブやガスランタンなど現代社会に迎合しなかった道具たちは人間の社会で起きた事など関係ないと言わんばかりにそれぞれの役割を果たしてくれた。

この経験から不便でも、確実に、自分がコントロール出来る道具に囲まれて過ごしたいと思うようになった。

 

電気も復旧したので私は東京へ帰る事にした。相変わらず新幹線は動いていないが、高速バスは動いているようだった。

チケットを予約し駅のターミナルに向かう。

止まっている新幹線の分を補うために増便しているとの事だったので、さぞ混んでいるのかと思いきやバスに乗ると他にお客さんは1人しかいないので好きな席に座ったください。と言われ、せっかくなので一番後ろの長い席に横になった。

 

疲れ切っていたせいでバスが動き始めてすぐに寝たが、高速道路の至る所に段差が出来ていて度々バスが大きく跳ねた。

ガラガラの高速を走り、着いたのはまだ暗い東京だった。

知り合いの話を聞くと、東京もかなり揺れたそうだが、私のアパートは無事だろうか。

街はどうなっているだろうか....

西新宿で高速を降りたバスの窓から見える景色はいつもと変わらない新宿の街並みだった。

当たり前にこの時間でもお店は開いているし、ネオンは変わらず明るい。

バスから降り、街の匂い、今までと変わらない匂いを嗅いだ途端に私が過ごしたこの数日間は存在しない幻のように思えた。

停電も、ランタンの明かりも、薪ストーブで沸かした風呂も、おびただしい瓦礫の山も....

 

中野のアパートまでタクシーで帰り、鍵を回す。

扉の前で一呼吸。

どんな光景があっても私はそれを受け止めなければならないのだ。

古いドアが開き塵がキラキラと朝日に照らされる、気が抜けるほど見慣れた光景だ。

グラスも戸棚にしっかり収まり、なんなら普段の部屋よりも整然として見えた。

いつもの生活に戻る。

私がいつも通りの笑顔を見せていれば、ここも今までと変わらない生活を私に与えてくれる。

東京に戻り、普段通りの仕事をして普段通りの買い物をする日が続いた。

 

 

小屋を作るにあたって

私は誰かの生活や生き方を否定する気は全くない。

私は、いつ崩れるか分からない危ういバランスの上でそれを意識せず暮らしている。

それでも不要な物を買い、まだ使う事が出来る物を捨てていた必要以上の消費活動を続ける気にはもうなれなかった。

あの時の体験は私の考え方を大きく変えるには十分な出来事であり、私の心は憧れだった都会から、生まれ育った場所に再び戻ろうとしていた。

幼い頃から山に登り、川で泳ぎ、冬は雪にまみれて過ごしたあの場所だ。

とはいえ、何かしたい、と思っているその何かはあまりにも漠然としたものだったし、私自身の内面なんてどうやったら形に出来るのか、問を抱えながら過ごしていた。

 

遊びのフィールドは段々と山の中に戻ってゆき、フライフィッシングや山奥での野宿、狩猟をするための準備などをして過ごす様になる。

帰省した時に家の周りの倒れそうな木を切る、またその薪割りが楽しい。

この薪はいつか熱となり、私たちの体を温めてくれる。そんな当たり前の事を想像するだけで冬が楽しみになり、積み上がった薪というのは素晴らしい眺めだった。

何より自然の中で斧を振り上げる労働は清々しい。

 

忘れていたわけではない、そこには小さな古い小屋がある。

 

川沿いの、薄暗い熊の通り道に建ち、ヤマカガシとスズメバチの巣だらけのそれについて私が思い出すことは、楽しく暖かい幸せだったと言える父との触れ合いの時間の記憶だ。f:id:takamattsu:20210905224008j:image

父が使っていた登窯があり、薪を運ぶ父の後ろをついて行く私を、帰りは一輪車に乗せてくれた。

そのハンドルを握る手は大きく、木屑だらけでボロボロの軍手がはめられていた。

窯焚きは我が家にとって(あるいは子供たちにとって)お祭りで、火を入れる何日も前から楽しみであり、保育園や小学校の帰りに小屋の煙突から火がついたばかりの黒い煙が昇るのを確認すると、もうたまらなく嬉しくて嬉しくて、嬉しくて駆けて行った。

 

普段は川底の石の様に静かで、暗い小屋。

粗末なドアを開けると、木の匂いと煙が充満した室内に雨粒大の汗を額に溜めた父がいる。

塵だらけのラジオからはどんな番組なのかすら分からぬ音が流れ、吊るされた裸電球の灯の下に立つ私に気がつくと、わずかに表情が緩むがその視線は真剣そのものである事が理解できる。

 

邪魔にならない様に遠慮がちに窯の周りを歩き、父の仕事を観察する様なフリをする。

窯の蓋を開け、薪を数本くべる間、父の顔は赤く照らされて、地面に置かれたばかりの先が赤くなった薪を混ぜる鉄のカギ棒の周りでは埃が細かい炎を上げている。

蓋を閉めるとわずかに緊張感が和らぎ、次の薪をくべるまで少し時間が出来る。

まだ安定しない窯の温度計から古ぼけた戸棚に父の目線が移り、その中から駄菓子を2つ選ばせてくれる。

父は窯の端に置かれた白い湯気を上げるヤカンからカップにお湯を注ぎ、背もたれのビニールが剥がれたパイプ椅子に腰かけると、私といくつか会話をしてくれた。

再び立ち上がった父が窯の蓋まで行くと、私は小屋を出て少し坂を上がった所に腰かけ、さっきよりわずかに白くなった煙を見ながらレモン味のラムネを食べた。

 

日が暮れると手伝いに人が集まり、焼締めの大皿に並んだおにぎりが運ばれる。

窯焚きはカップラーメンを食べる事が許される貴重な機会だ。(他はキャンプと母が泊まりでいない時だけ)

アソートの袋に入った小さなカップ麺を何味にするか、姉と真剣に悩む。

大人達に混ざり、埃っぽい小屋の汚れた机の上のカップ麺をすするという事は子供にとって最高の経験だ。

それは窯の隣にある薪棚まで薪を2、3本運びたくなるくらい素敵な体験だった。

 

減築されてすっかり小さくなった小屋の前で記憶が溢れてきた。

粗末なドアを開けると、土埃っぽい匂いが充満した室内に、役目を終え久しい赤茶色の肌の窯だけがあるだけで、15年以上の時の流れは残酷にも懐かしさよりも寂しさ、虚しさを呼び起こす。

再びここの灯りに人が集まる様にしたい。あの記憶の場所がたまらなく恋しいのだ。

登窯として火を入れてやる事はもう出来ないが、父が集めた廃材やガラクタでここを生まれ変わらせよう。

立派な、贅沢な小屋する必要はない。私の子供達がいつかこの場所を思い出す時には、不器用な父との少し切ない記憶として取り出してほしい。

 

普段暮らす家とは違い、たまに来て過ごす場所であるから、ここは私の理想を試しながら作ることにした。

 

必要なものがある場合、自分で作る。それが出来ないものは要らない。

快適さのために高価な材料を買って使う事もしない。

寒さや暑さ、労働を楽しむ生活をする。

簡単な解決方法を選ばない、挑戦と実験をもって解決する。

無駄な消費はしない、不要になったものを再利用する。

中の環境を、必要以上に外と違うものにしない。

再生や再利用の出来ない材料を使わない。

 

と、こんな事を考えていた。

かなり漠然としたものであるためわかりにくいが、簡単に言えば雨風を凌げて中央には小さな薪ストーブがあれば良い。というものだった。

暑さはあまり苦にならないだろうが、冬は厳しいだろう。それでも寒ければ着込めば良いし、我慢すれば良いのだ。

白い息を楽しめる逞しさを忘れ、常識的な方法で解決したならば、ここの生活は失敗になるだろう。

それでは外の世界で何か起きた時、私も小屋も機能しなくなるのだ。

小屋とともに成長しながら「世の中の事」を少しずつ知って行きたい。

窯だった大量のレンガと向き合い、運び出し続けた1週間、私はずっとそんな事を考えていた。

 

それからの事はまとめた動画がYouTubeにあるので、そちらを見ていただいた方が良いだろう。

www.youtube.com

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1年3ヶ月たって思った事

今年の8月まで、何度もここに滞在しながら手を加えてきた。

冬の寒さは強烈だったが、納得のいくように防寒対策を加えながらなんとか過ごす事ができた。f:id:takamattsu:20210905224119j:image

家のように暖かければどんなに良いかと何度も思う。

ある朝、凍えながら起きると外の木に1羽の鳥がとまっていた。

寒そうにしながらも、その姿がとても自由に見えるその鳥の、巣はどこかにあるだろうがきっと雨風だけ凌ぐ簡単な物だろう。

今朝は特に冷えるよなぁ、と親近感が湧き思わず笑ってしまう。

それが飛び立った後、雪の積もった木に残った足跡からはその軽やかな羽ばたきが見えるようであった。

私はどうかこの小屋を、自然の中から近しいものにしておきたいと思った。

たしかに断熱材も1つの答えだろう。

しかし、私は寒い寒いと言いながら自分のアイディアと工夫を、この場所の装飾とするのだ。

それらは美しく、暖かい。

 

この実験と挑戦、いわばここの生活の根幹となる純粋な創造的実験を、市販品で埋めてしまうにはもったいない。

専門家や、あるいは本の導きをなぞる事が完成ならば、この場所にとってその完成は無意味だ。

自分で考える事を怠けなければ、いつまでも純粋な実験と忍耐の時間は続く。

素晴らしき永遠の未完成だ。

 

春には念願だった屋根付きのウッドデッキを作った。

これで雨の日でも作業が出来るし、薪だって十分な量を保管出来る。f:id:takamattsu:20210905224245j:image

雪が溶けたら作りたいと思っていたが、着手できたのは運よく立派な古材を譲ってもらう事ができたからだ。

これだけの立派な材木を買ったらいくらかかるだろう。

それにこの時、ホームセンターの木材の在庫が安定しない、という出来事があった。

新品の、ただでさえ供給不足な木材を買ってきて森の中にウッドデッキを作るような事はあまり気が進まなかったので、使い道がなくなり、外で雨ざらしになっていた古材でここを作ることが出来たのは、自分の考え方のピースがピタッとはまったようで良い気分だった。

 

夏には畑を作った。

ここでは食べ物は一方的に消費するだけだったので畑を作り、生きるため糧を生み出したいと思っていた。

普通の畑と違って頻繁に見回りができないため、まだ実験的な畑だが、ここに最適な運用の方法を見つけたい。f:id:takamattsu:20210905224315j:image

釣りや狩猟も食べ物を得るための手段として考えているが、こちらもまだまだ実用には程遠いのでやり方を探りたいと思っている。

 

自給自足なんて立派な事を言うつもりはない。

私の生活は生み出す物よりも消費する物の方が圧倒的に多いし、消費活動のために行う労働の方がはるかに多い。

それでも、考えていたい。

ここの未来を。

生活の多くを失うような災害を経験しても、脆いバランスの上に成り立つ当たり前の生活を続けてゆくのか。

子供達がいつか私の歳になった時、今私の目の前に広がる自然を彼らに残す事が大人の責任だろう。

小屋の前で遊ぶ子供を見てそう思っている。

 

終わりに

次は小屋の土間に床板を張りたい。

これは私にとって大きなチャレンジである。

床板を、ただ張るだけだ。床板を、ただ。

父が集めた廃材はもうほとんどを使い切ったが、先述した理由で材木を店で買うのは気が進まない。

私にとってそれは消費であるし、同じ材木が隣のホームセンターより100円高いとか、この材料が無いといった知らない誰かの都合に振り回されるのが嫌だからだ。

骨組みは森から切り出してきた木を使い、床板には薪用に切り倒してある松の木をなんとか製材して使えないかやってみようと思っている。

無理だろうか。

きっと投げ出したくなる事ばかりだろうが、いつか見た鳥のようにここで自由に生きるためには私の汗をその対価とするべきだろう。

どんな作業になるかは分からない。

ただ私はここにいて、斧を振り、火を焚き、佇み、眺めるだろう。

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1年間の山小屋開拓を終えて...

2021年7月最近の小屋。f:id:takamattsu:20210715140913j:image

今、このブログに読者が何人居るのか分からない。

月に数回はアクセスがあるようなので、まずは1年間放置してしまっていたことを謝りたい。

屋外(というか屋内....?)活動の場が小屋つくりがメインになってからは発表の場がyoutubeがメインになってこのブログで記事を書く事が無くなって行った。

おかげさまでYouTubeの方は1年経たずに晴れて収益化する条件を満たし、今でも少しずつ登録者が増えている状況だ。

ではなぜ、今になってまた文章で記事を書きたくなったのかというと、動画だけでは段々に伝えられきれない事がでてきて一種の消化不良のようなものが溜まってきてしまっている事に気がついたからだ。

小屋で生活する中で色々な事を思ったり考えたりするのだが、動画内の1画面15文字程度の字幕だけではそれの全てを視聴者に伝えきれない。(動画内で私は話したりしないスタイルが定着してしまった)

YouTubeの動画を自分で見返すと、少し良く見せすぎたりしたかな...と反省したりもする。私は性格が良いと自分では思わないし、実際は後ろ向きな事ももう少し考えていたりするのだ。

ぼやきや愚痴を言うつもりはないが、ここではもう少し思った事を具体的に文章にしてまとめてゆければな、思っている。

今までの小屋作りの経緯が気になる方は、1年間のまとめ動画があるのでそちらを見てほしい。

www.youtube.com

さて、本題に入ろう。

ただの元登窯小屋をなんとか暮らせる様に改造してきた訳だが、意識せずとも元々のケチな性分が出てしまい材木を店で買う事が無くなっていった。その代わりに廃材や、ゆずってもらった古材、周りの森から木を切って来てそれらを使っていろいろな物を作る事が増えたのだが、それがすごいしっくりくるというか、小屋が完成して余裕が出来て来た今、今度はどのようにしてここで過ごしてゆくべきかといった事を考える次のステップにたどりついたのだろう。

たどり着いた理想の過ごし方とは「消費の少ない生活」だ。

それを世間一般に何というのか分からないが、エコな生活とも違うと思う。

車やバイクを使うのは全く何とも思わない。しかし余計な機能ばかり付いた新車を買いたいとは思わない。すぐに買い替えを促すシステムや法律が嫌いだ。車にしろ、パソコンに家電にしろ....

街で暮らしていると疑問を持ちながらも抗う事が出来ないその仕組みの中から、森の中では少しだけはみ出して暮らす事が出来る。

中古で格安で買った電動工具達はどれも良く動いてくれるし、壊れたら修理する事が出来る。部品だってシンプルな物が多いので自分で作る事ができるし、ハンマーやノミ、シャベルなんかはその最たる物で、煩わしいOSのアップデートも、サポート期間やサービスの終了によって使えるはずの物なのに使えなくなる事は無い。

YouTubeの広告料のシステムは素晴らしいが、私はその動画もサービス期間の終了しそうなカメラで撮影し、インターネットを使ってアップしている。なので完全な自給自足を出来ると思っていないが、なんでも消費してゴミにしてしまう仕組みから適度に距離をとって暮らしたいと思っている。

それとここの暮らしで気にいっているのは日々の中に「我慢」があると言う事だ。

欲しい物があっても自分で作れそうなら作ってしまうし、買うなら本当に必要な物か考える様になった。(一見無駄遣いのような物でも2ヶ月くらい悩んでまだ欲しいようならやっと買う様にしている。)

先ほど貼った動画は多くの方に見てもらえてコメントをたくさん頂いたのだが、私が小屋に断熱材を使っていない事について否定的なコメントも多く頂戴した。

私も他の小屋作り、小屋暮らしをしている方の動画が好きでよく見ているのだが、確かに断熱材を使っていない小屋は見つけられなかった。断熱材を否定している訳ではない。私には買う金が無かったので使わなかっただけだ。それが自分の身の丈にあった小屋なのだろう。

家にするならば断熱材はどうしても欲しいところだが、家を作っている訳ではない。ならば小屋には小屋の、寒さを楽しむ方法があっても良いはずだ。実際、凍えきって起きた朝、薪ストーブに火を入れたときのあの徐々に室内が熱に満たされてゆく感じ。トイレに起きて外から帰って来て暖かい寝袋に潜り込む時。

思わずニヤッとしてしまう。

寒さを解決する方法は一つではない。着込む事だって出来るし「我慢」だって立派な寒さ対策だ。寒さも楽しめる強さが欲しい。

-20度にもなる極寒の小屋で2週間の滞在を耐え抜いた。寒さも厳しかったがいつもより自然に近い所から見る真っ白な世界は息をのむほど美しかった。

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とはいえ真冬の2週間は私の体にかなり大きなダメージをあたえていた。このままにしておくわけにもいかず、計画を立てた。

1番寒さのひどいキッチンのある土間部分を床で覆ってしまおうというわけだ。

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↑この剥き出しの土間からの底冷えが小屋全体の熱を奪った。

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↑完成後。完全に底冷えの冷気をシャットアウトしてくれた。

 

この計画は大成功でストーブを燃やすと室内は30度近くまで暖まった。それに広い床下収納も手に入れた。1つのものを作って2つの問題を解決出来るのは素晴らしい。

そんな調子で春には広い屋根付きのウッドデッキ、ドラム缶のお風呂、欲しかった畑に簡単な鍛冶場まで作った。どれも必要以上のお金をかけずにもらって来た物や廃材を使って作った物だ。

中でも畑はこの小屋を作り始めた頃から欲しいと思っていたもので念願がかなった訳だ。

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今回作った小さな農園。

 

作業の様子は動画を見てもらった方が早いのでここではあえて書かないが、なぜ畑だったのかという事を詳しく書きたいと思う。

消費するだけではなくここを何か物を作り出す事が出来る場所に出来ないか。

畑で作物を育てる事はまさにそうだろう。

「農民芸術概論」

まずここをどんなところにしようかと考えた時に真っ先に思いついたのはこれだった。

銀河鉄道の夜」や「どんぐりとやまねこ」を書いた宮沢賢治の芸術論だ。

ーおれたちはみな農民であるー

から始まるこの文章は辛く過酷な労働を創造によって昇華させようとする試みだと思う。では昇華とはどのようにするのか

ー芸術をもってあの灰色の労働を燃やせー

 

声に曲調節奏あれば声楽をなし 音が然れば器楽をなす
語まことの表現あれば散文をなし 節奏あれば詩歌となる
行動まことの表情あれば演劇をなし 節奏あれば舞踊となる

.............とあるが

つまりは自分が得意な事、農業と関係のない事柄でも取り入れる事で暮らしや労働を明るい物にしようというわけだ。

これを私の小屋暮らしに置き換えて考えると違いが多すぎて漠然としてしまうのだが、とにかく何か私が好きな事、得意な事を表現するステージとしてこのささやかな農園を使えないだろうか。

私は普段仕事で写真や動画を撮っている。

という訳でここでの生活をYouTubeやブログで発信する事自体が目的を達成しているとも言えるだろう。

しかし私は思う。ギターが弾ける仲間や料理が出来る仲間、お話が上手い客でも良い。

とにかく色々な人が集まって畑の収穫祭が出来ないかと。

きっと今までもそういった試みをした人は沢山いるだろうし私も知っている。

しかしそれのどれとも違う。もっと、もっと黒い土から近いものにしたい。きっと映像が撮れる、とか音楽が出来る、なんて違いはここではナスかキュウリかくらいの違いでしかないだろう。収穫祭の間はみな農園の子供となれれば良い。

ひとつの焚火を囲み、ささやかな会にしたい。四駆も、大きなテントや高価なキャンプ道具も必要ない。

今年は集まる事自体が無理だろうから1人で予行演習にしようと思う。

焚火と小さなランタンで山小屋の農園収穫祭だ。

 

山小屋生活。7月編

1人になれる場所が欲しい。

もしそれが森の中に建つ古い小屋だったら、都会に帰る理由はもはや無いだろう。

しばらく前、亡き父が遺した登り窯を解体してその小屋を生活出来る様に手を加えようと思いついた。

私が生まれて、幼少期から思春期まで過ごした故郷に建つこの古びた小屋。

このまま朽ちる姿を見るのが忍びない。

やっと思い立ち、まとまった休みをとるとこの窯の解体に着手した。

その時の事は以前の記事に書いた通りである。

https://takamattsu.hatenablog.com/entry/2020/05/06/134723

 

今回はその小屋に滞在した数日間の事を書こうと思う。

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約2カ月ぶりに訪ねた小屋は変わらずにその古びた姿で迎えてくれた。

あたりはすっかり伸びた緑の草や蔓に覆われ、一層忘れ去られた小屋の雰囲気を増している。

ここを知らない人ならば恐怖心すら抱く佇まいだ。

ギイっと鳴く手作りのドアを開けると、材木と土の匂いがする。私の小屋だ。

まずは掃除から始める。

柱にはいくつも私が留守の間の主となった蜘蛛の巣が作られていたし、小上がりにはここで最後を迎えた虫達が散らばっている。

窓を開け。くたびれた箒でそれらをきれいにする。

部屋の中を見渡す。

やっぱり私の小屋だ。

今夜から過ごすここでの日々が早くも楽しみだ。

荷物を片付け、ロフトに寝床の支度をする。

コットと寝袋の簡単な物だが、寝心地は非常に良い。

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今回、ここへ来たのにはいくつか目的があった。

・小上がりにカウンターを作ること

・冷蔵庫を設置すること

・玄関に屋根付きのポーチを作ること

・この小屋で薪を割り、暮らし、たくさん飲むこと

 

上の2つは簡単だろう。

冷蔵庫のあてはあるし、カウンターに使う一枚板は汚れてはいるものの磨けば使えそうな材木の見当がついている。

玄関のポーチはどうだろう、父がせっせと溜め込んだ廃材は小屋を作った時にほとんど使い果たした。

柱に使う木となるとそれなりに値が張る物を4本は用意しないといけない。

そして何より4つ目だ。ここでの暮らしとはどんなだろうか。

考えていると、ランタンのロウソクの揺らぎに誘われてあっという間に眠りに落ちた。

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ここの滞在中は、しばらく雨が続いた。

それでも雨露に濡れた森を歩くのは楽しいし、植物達の観察もまた然りだ。

全く無駄の無い造形、それぞれが調和しながらも個性に溢れるそれらは濡れた土の匂いをさらに良い物にしてくれる。

まずは犬の寝床を作ることにした。

私の犬はなんだかこの小屋が気に入らない様で落ち着きがなくいる。

簡単なマットと古いタオルを敷き、それはすぐに完成した。頼りのない相棒はすぐにそこを気に入ってくれたが一息つく事は出来ない。

やる事は他にいくらでもあるのだ。

その後数日間は溜まっていた薪割りやらに費やさなければならなかった。

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しばらく水滴だらけのぬるくなった発泡酒をすする日が続き、いよいよ冷蔵庫を運び入れようと思った。

小さくて古いが、冷凍室も付いたスグレモノだ。

冷たいビールを妄想しながら窓を眺めると、この窓から覗く森を眺めながら飲みたいと思った。

それならばカウンターが要る。ここで冷えたビールを飲むには、何よりもカウンターが要るのだ。

カウンターにしようと目をつけていた木材は思ったより重く、ボロボロだった。

触るのさえ躊躇したし、実際持っても運べないほどに重かった。

それをサンダーで磨きあげていく。

サンダーの活躍でそれは虫の食ったボロの材木からみるみるカウンターになっていった。

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冷蔵庫も入り、これで言うことはない。

ここにあぐらをかき、まだ明るいうちから飲んだ。森を、川を見て飲んだ。

 

残るはポーチをどうするかだ。

 

夕暮れの森は、考え事をするにはきっと最適な場所だ。ただの思いつきでも、それがやり遂げる事が出来る物に思えてるからだ。

周りを見渡す、あれも、あの木もなかなか真っ直ぐでサイズが良い。

あれは途中の3mほどは真っ直ぐな部分がある。。。。

どうしてこんな簡単な事を思いつかなかったのだろう。

材料は森の中にいくらでもあるではないか。

早速明日から材料を切り出そう。

 

次の日も雨。

切り出す予定の木が生える場所は谷間になっていて足元に注意が必要だ。

切り出した木はさほど太くは無いが水をいっぱいに吸っていて驚くほどに重い。

欲を出して切り出した1番太い丸太は斜面から運び上げる事さえ不可能に思えた。

しかし、せっかく切らせてもらったこの木を無駄にする事は出来ない。

森の中の作業には冷静な計画が必要だ。

もしそれが無いのならば行き当たりばったりを押し通す根性が必要になる。

ありったけの根性を振り絞り、体をいじめ抜いて材木を運んだ。

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柱を乗せる土台や、梁、屋根板などは余っている廃材を使う事にした。

買ったものは柱を留めるボルトくらいだった。

柱の根本の水平にだけ気をつけると作業はかなりスムーズに行った。

3日ほどで作業が終わり、満足のいくポーチが出来た。

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これ以上何を望むだろう。

ここがあれば雨の日でも作業をしたり、焚き火を楽しむ事が出来る。

ここの作業風景は動画に撮ってみた。

もし興味があれば見ていただきたい。

https://m.youtube.com/watch?v=XJMiaIba56s

 

さっそく火を熾す。

 

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暗くなってもいつまでも眺めていられる。

古ぼけた木の椅子を置くとこの場所がすっかり気に入った。

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ここへ滞在出来る期間の残りはどんどん少なくなってくるが、やらないといけない事はまたまた山積みのままだ。

ストーブの煙突。

小屋を作った時はかなりの突貫だったので取り付けがかなり甘くガタガタになっている。

秋の前にしっかり直しておく必要がある。

使う時に慌てない様に。

 

とりあえず直った様なので試しに火を入れる。

煙が勢いよく上り、私を安心させる。

熱を利用して柱の端材で作ったコースターを乾かす。

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次来るまでには乾いたコースターになっているはずだ。

 

森の中の生活はとてもシンプルだ。

労働の後の冷えたビールはありがたい。

川の音を聞きながら揺れるランタンの灯りに微睡む夜、鳥達の声に起こされる朝。

窓を開けると部屋に吹き込んで来る朝の森の空気。

コーヒーを入れると部屋を満たす香り。

一つ一つの行いに意味と喜びがある。

 

今、小屋から離れた場所でこの文を書いている。

あの小屋はどうしているだろう。

雨にうたれているだろうか、もしそうなら小さな客人達が雨宿りに来ているかもしれない。

街の雨を見ながら、はるか北に建つ彼の小屋を思った。