建てて、作って、獲って、食べる。【建てる編】
私は歩くのが好きだ。
電車やバスの様に乗り換えや行き先を気にしなくても良いし、車の様に行き先の駐車場を考える必要もない。
特に道具を必要としないし、自分次第ではどこまでも行ける。
費やす時間や苦労を厭わなければ、お金もかからない。
リュックに気に入った道具をいくつか入れて、この先にどんなロマン溢れる体験がまっているのか。
想像するだけで楽しい旅の妄想だ。
私は小屋作りが好きだ。
亡き父が残した登窯の掘立て小屋を、生活出来るように改装した日々は心踊る体験であったし、今はそこに滞在する事が私の1番の楽しみになっている。
では私にとって小屋作りの魅力はなんだろう。
私が小学生だったある日、家に届いた大きな荷物に心ときめいた時の事を今でもよく覚えている。
中身は大きな機械だったが、それではなく段ボールの箱に私の関心は向いていたのだ。
長さ140cm高さ100cmほどの大きな箱。
中身を取り出して裏返すと、ちょうどカプセルホテルの一室をさらに一回り小さくした様な空間がその中にはあった。
その日から、それが私の部屋になった。
まず下部の脇に、小さな出入り口を作った。
体の小さい子供の私が、なんとか通れる大きさだ。大人は誰も入れない。
床には布団を畳んで敷いて、枕元には持っている漫画本を全部並べた。
外から延長コードを取り込んで、壁に常夜灯をガムテープで取り付けた。狭いので、小さな豆電球だけでも充分明るい。
それからラジオを持ち込んで、外の壁には姉が絵を描いてくれた。
毎日その中で過ごした。
良くわからないラジオ番組を聴きながら、何度も読んだ漫画を、また何度も読み返した。
本当に楽しかった。
それに冬は熱がこもるので、家族が寝ている部屋よりずっと暖かかった。
小さな空間を、好きな物で埋め尽くす楽しさを私は知った。
それから私は成長し、10代の半ばにもなると、心は街へ向くようになった。
高校を卒業して、東京へ出た。
何かと理由をつけ、家へはあまり帰らなくなった。
父はたまに葉書をくれた。
「次の休みは帰って来ますか?カイが会いたがっているようです。」
カイは当時飼っていた犬の名前だ。
カイもきっと私に会いたがっていたとは思うが、葉書にそう書いて送った父の気持ちを、私は汲み取らなかった。
それから7年後、父が病気で亡くなるまで私は変わらなかった。
入退院を繰り返して、次第に痩せてゆく姿を見ても、今という時間がずっとあるかの様に私は振る舞い続けた。
父の死を家族がなんとか乗り越え、遺した物の整理を少しずつしてゆく事になった。
私はふらふらと坂を降りて行って、川沿いに建つ小屋のドアに手を掛けた。
数年ぶりに中へ入った。
減築されてずいぶん小さくなったが、紛れもなく父の登り窯小屋だった。
当時の思い出が強烈に蘇ってくるのを感じる。
自分自身も父になり、今になって思い知ることはいくつもある。
母が泊まりで家を留守にした晩、家のリビングにテントを張ってくれた父。
姉は漫画を、私はおもちゃを買ってもらい、滅多に食べられないカップ麺をそこで食べる。
寝る時、父が宝物のランタンを皮のケースから大事そうに取り出すと、姉も私も目を輝かせた。
父は自慢げにそのロウソクに火を点け、テントの天井にかけてくれた。
その影を眺めながら寝るのが大好きだった。
その日、私たち子供は無邪気に非日常を楽しんでいたわけだが、妻が居ない夜、どうやったら子供達が寂しがらないのか、父はきっと考えていたはずだ。
いつだってそうだった。
気が短くいつも怒っていた父だったが、その愛情に包まれた25年間だった。
そう言い切る事ができる。
父が亡くなってから、まるで温かい上着が剥ぎ取られたように感じるから。
手作りで建てられたこの掘立て小屋を見て、私が出来る事はもうあまり無いのだと分かった。
親孝行したくても父はもう居なく、感謝の気持ちを伝える事も、思い出話をしながらお酒を飲む事も出来ない。
無いも出来ない無力で馬鹿な私は、この場所を守ろうと思った。
父が集めた材料を使って、この小屋を人が集まって思い出話に花が咲く様な場所に変えたい。
そして子供の頃に与えてもらった様なワクワクを、子供たちにも体験させてやりたい。
今はそう思いながらこの森を開拓している。
山小屋が出来たことで、そこで使う様々なものを「作る」。
そしてそこを拠点にして獲物を「獲る」。
それを家族みんなで「食べる」。
と繋がってゆく。
まとまりのない記事になってしまったが、これが「建てる」の元になった私の体験と思い出だ。
お分かりのように、私には誰かの手本となれるような技術も知識も無いので、ハウツーのような記事は期待しないでいただきたいが、これから「作る」「獲る」「食べる」に関してこの森で暮らして感じたことを、ダラダラと綴りたいと思う。