たーぼの山日記

YouTubeやってます。「たーぼの山日記」山好な管理人が野宿に、渓流釣りに、たまに狩猟に行った記録です。

私が廃材でボロ小屋を作る様になった理由

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はじめに

故郷にある父の窯小屋を暮らす事ができる場所にしようと考えた時から決めていた。

何も参考にせずに思うままに、自由に作ろうと。

 

あまりこんな事を書いては自分語りのようで嫌なのだが、色々と思う事があったので記録のために書かせてほしい。

 

使う材料は父が残した大量の廃材や古材に、小屋の周りに生えている木々。

工具は最低限の物しか無い。

父の仕事場にあったノコギリとハンマー、中古で買った電動工具が少々。

DIYの小屋作りの指南書に載っている立派な材料も道具も無い。

そんな本は私にとって全く縁の無いだった。

 

父の死

2011年の春の初め、父が亡くなった。

長い間病気を患い、少し前から具合が悪くなり市内の入院していた。

当時私は東京に住んでいて、亡くなる数日前に田舎へ帰り病室の父に面会した。

これが会うのは最後になるだろうとは分かっていたが「また来る」と言い私は東京へと戻って来た。

 

その2日後の明け方。

目が覚めると、窓の外には季節外れの大粒の雪がゆっくりと、ゆっくりと降っている。

今、父が亡くなったのだと分かった。

目を逸らす事が出来ずにその真綿のような優しい雪が暗い色の雲から降りてくるのを眺めていた。

1.2分ほど降り続いただろう。

雪が止むと電話が鳴り、母から父が亡くなったと改めて伝えられた。

数日前に容体を見たからなのか、不思議な雪を見たからなのか、驚く事は、無かった。

とにかくその日に片付けなければ行けない仕事を済ませて、仕事仲間に2.3日田舎へ帰る事を伝えた。

新幹線に乗り実家へ着くと、親戚が集まり通夜の準備をしていた。

私にはその光景がなんだか他人事の様で、現実では無い光景を眺めている様な気がした。

葬儀が済み、火葬までの何日かはただ酔っているのか二日酔いなのかすら分からない状態が続いた。

やっと火葬が終わり、酒臭い体を洗い流して少し休もうと実家に帰る。

傾きかけた日差しが差すリビングに入ったその時。

 

わずかに家が揺れた様な気がした。

そう思った瞬間、強い衝撃が家全体を揺さぶり壁がミシミシと音をたてる。

避難も何も出来ない、不安な気持ちで天井を見上げて、ただ、ただ、立ち尽くしていた。

焦ったり立っていられなくなるというのはフィクションの中だけだ。

どうする事も出来ない。声を出す事すら許してもらえず、気分の悪くなる時間を無力に耐えるしかないのだ。

どれくらい続いたのか分からないが、今まで経験した事のないくらいに激しく、そして長く揺れた。

何が起きたのか知るためにテレビをつけた。

地震のニュースをやっている!

やはりかなり大きかったのか、と思ってテレビに近づいた瞬間、テレビは暗い画面に戻った。

停電か。

結構揺れたし、電線が切れたのかな?

と、その時はそれくらいしか考えず2階のベッドに倒れ込んだ。

しかし、冷蔵庫も給湯器も、それ以降動く事は無かった。

 

少しして目を覚ましたのはメールを受信したケータイの受信音だった。

何件か来ているな、と思い上から順に開く。

どれも東京の知り合いから、私の安否を気遣う内容だった。

たたが地震で大げさな、としかその時は思わなかった。

情報が遮断されたせいで何が起きているのか分からなかったのだ。

夕方になっても電気は点かず、室内は静かな薄暗さに包まれ始めた。

 

何かほしい物があると、昔から父の仕事場に行った。そこにある物はほとんどがガラクタだが、探せば何かが必ず出てくる。

 

キャンプ道具を漁ってみると、箱の中から古く、そして懐かしい匂いがして、小さい頃にキャンプや車中泊に連れて行ってくれた時に使った記憶が蘇る。

曲がったロウソクやプラスチックの皿の他にガスのランタンやストーブがあった。

これらは停電生活で 大いに活かせられるだろう。

これらを母屋へ持ち帰りテーブルの上に乗せて点火しようとする。

果たして15年以上前に使って以来そのままの状態である。うまく着くだろうか?

点火スイッチのカチッという音が聞こえた瞬間、オレンジ色に照らし出された不安そうな家族の顔が、おー。という安堵の表情に変わった。

シュー、とガスが燃える音と熱になんとも言えない安心感を得た私たちは、やっとまともな会話をする事が出来た。

何か情報が欲しいとラジオをつける。

ニュースは、地震、そして津波のニュースを伝えていた。それでもどんな事が起こっているのか、この時はほとんど分からなかった。というよりあんな現実を想像する事などは無理だったのだ。

他に何か情報がないかとチャンネルを動かす。

ノイズだらけの放送はうまく聞き取れないが「...Radio...activity .....」という単語が頻繁に聞こえる。

なぜ放射能の話をしているのだろう。

言い表しがたい不気味さが昨日までよりずっと暗い部屋を支配する。その夜は1階で皆一緒に寝る事になった。

次の日の朝、また東京の知人から連絡が入る。私がいる県で起こっている事の映像がニュースで流れたのを見て再び連絡してくれたのだ。

このやりとりで何が起こっているのかかなり理解できた。どうやら私たちが理解していたことよりもずっと状況はひどいらしい。東京に帰る手段を探して欲しいと頼むと「おそらく無理だろうが」という前置きがありつつも引き受けてくれた。

こうなってしまった以上東京には帰れず、特にやれる事はない。

幸い食料は買ったばかりであったし、ガスも水道も問題ない。暖房は薪ストーブを使っているのでこれでお湯も沸かす事が出来る。

困ったのは電気だ。ケータイの充電が不安だったし、買い込んでいた食料をどう保存しようか。

(※話が脱線してしまうが、これは是非書かせてもらいたい。田舎の家というのは基本的に土地が広く、母屋の他に小屋や納屋がある家が多い。

これらには薪や道具類などをしまっておく事がほとんどだろうが、私の経験上それらの他に不用品やガラクタが置いてある。

しかしそのガラクタは平時の私たちにとってガラクタなのだ。このような非常事態ではガラクタやゴミも役に立つ事がある。私の家では冷蔵庫が使えなくなった後、クーラーボックスに入りきらない分は発泡スチロールの箱を見つけてきてそれに入れた。

それに薪や、チェンソーや刈り払い機用のガソリンもいざとなれば燃料として使えるだろう。

現在は私は都会に住んでいる。マンション暮らしである。

都会の住宅というのはほとんどが狭い。それには居住空間以外に無駄なガラクタや廃品を取っておくようなスペースなんて無いのだ。何かを買ったら何かを捨てないといけない。これは何かに使えそうだから取っておこう、という事が出来ないのは、あまり表立って見えて来ない都会の災害への脆弱さの1つだと思う。)

 

被災地へ

話を戻そう。

当分の生活はなんとかやっていけそうだし、仕事も出来ないのでしばらくのんびり休む事にした。

昨晩は1階で寝たのでゆっくり休もうと2階に上がりベッドに横になった。

うとうととしているとメールの受信音で目が覚める。

開いてみると仕事の依頼だった。

私は当時、フリーランスでマスコミの仕事をしていて、メールには被災地の取材をして来るようにとの依頼が書かれていた。

最低限の仕事道具は持って帰って来ていたし、出来ないことはなかったが、色々と問題もある。

最も大きな問題はガソリンだ。関東と違って東北は広いのだ。同じ県でも海から離れているのでうちは停電くらいで済んだのである。

津波の取材となれば250kmくらいは走る事になるだろう。

正直あまり乗り気ではなかったがうまく断る事が出来ず、ガソリンの調達に奔走する事になった。

なんとか準備をして父が乗っていたジムニーに荷物を積み込み、車の全くいない道を走り始めたのは夕方になってからだった。

 

かなり走っただろう。

すっかり日が落ちてあたりは青い風景に変わっていた。

その暗闇の中、急に見慣れない光景が対向車のライトに照らされる。

おびただしい量の瓦礫だ。。。

海のある街からはまだ20km以上あったが、津波が川を伝って瓦礫を押し流して来たのだ。

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車を止めて降りてみる。あたりは泥と瓦礫の匂いだ。これからまだまだ海に向かって走らないといけない。いったいこの先はどうなっているのか、暗闇のせいもあり、得体の知れない恐怖が車と私の思考を停止させる。

 

朝になり、再び車を走らせる。

1時間もせずに海の見える場所に着いた。

何度も来た事がある場所だった。

面影が無い、と言うことはなく、街は私が知る景色のままだった。

しかし、そこには瓦礫や潰れた車、色々な漂着物が至る所にあり、異様な光景となっている。

海岸沿いは黒い更地になり、所々煙が上がっている。

これらがこの震災の本当の姿だったのかと思い知らされた。

こうなったらとことん行こう、車に乗り込みさらに南へと向かった。

通れる道は限られていたが、他の車について行きながらなんとか走る。

帰りの燃料の事を考え、広場に車を停めて後は歩く事にした。

歩きながら峠を越える。まだ海は見えない。見たくなかった。

ずっとこの坂が続いてほしい、そう思った。

一台の車が私を追いぬいた所で停まり、声をかけられた。この先に行くのなら乗って行けと。

なんと答えて良いのかわからず、とにかく助手席に乗り込み話を聞いた。

乗せてくれた方は60歳くらいの男性で、奥さんが行方不明にになっていたそうだ。

避難所をいくつも周り探していて、この先に残り最後の避難所があるらしい。

私の一緒に探したいと言う申し出を承諾してもらい、このまま避難所へと向かう事になった。

公民館だった場所に出来た避難所にはたくさんの人達がいた。そしてその人達を探しに来ている人もたくさんいた。

大きな板にそこに避難している人の名前が張り出されている。あまりに数が多いので手分けして奥さんの名前を探す事にした。

1人1人、何度も読んだ。1人違う名前が過ぎてゆくたびに心臓が嫌な音を立てて、腹が捻れそうになる。

早く見つかれ、早く見つかれ!

気がついたら名前を声に出していた。そして、私達はもう4周も同じ場所を回っていた。

ここにいる人がみな同じ気持ちでホワイトボードを睨んでいると思うと、恐ろしくなりこの場から逃げ出したくなった。

私を乗せて来てくれた男性に話しかけると、妻が見つからなかった場合はここに残りボランティアをするつもりだった、との事だった。

私はかけるべき言葉が見つからずにただ、お礼を言いその場をあとにした。

避難所を出て、坂の上に出ると景色がひらけていた。

私の脳裏にある写真が蘇る。

10年以上前に見た小学校の歴史の教科書に載っていた被爆後の広島の光景によく似ていた。

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市の中心地だった開けた場所を歩く。

丈夫な鉄骨作りの建物だけが辛うじて残っているが、ショッピングモールは骨組みだけが残り、瓦礫は屋上にまでへばりついている。

いくつかの道路は瓦礫がどかされて、1車線程度の広さだが消防や自衛隊の車両が通れる様になっていた。

所々に取り出された畳が引かれていて、その上に毛布のかけられた人達が横になって並んでいる。

毛布から覗く足は濡れた黒い泥にまみれていて、もう動く事は無い。

 

身元の分からない人の所には赤い旗が立ち、時折毛布をあけて顔を確認に来る人がいる。

潰れた車や家屋にも赤い印がつけられていて、そこには重機がやって来るのを待つ人達がいるという事が分かった。

街のほとんどが瓦礫に埋もれてしまっているので、その上を歩かなければいけない。

もしこの足の下に誰かいたら、と思うと踏み出す一歩が躊躇われる。

このあたりはまだ消防の捜査も入っていないのだろうか、被害に対して赤い旗が見当たらない。

しかし、分かってしまうのである。

すぐに見えなくとも、残された人がいる場所が分かってしまうのだ。

津波が来てからの数日、3月にしては暖かく、その日もまさに春らしい陽気であった。

そのせいで街中にたちこめる潮と瓦礫の埃っぽい匂いとは別の匂いが所々にあり、はっきりとそこに人がいる事を知る事が出来てしまう。

望まなくても瓦礫の下や潰れた車の中にいる人を見つけ、思わず手を合わせる。

これ以上ここを歩いてはいけないと思い、戻り捜索隊に先程見た事を伝えた。

道路の脇には瓦礫が山の様に積み上げられていてまるで迷路の様だ。

その角を曲がるたびに見つかった人達が並んでいる。毛布をかけてもらっているが、明らかに小さなシルエットもあり、その目が最期に見た光景を想像するとただ、辛い。

この人達全てに家族があり、つい2日前まで当たり前の日常を生きていたのだ。

それは当たり前の事だが、とても恐ろしい事の様に思えて今はどうやってもそれを受け入れる事が出来ない。

 

もういい、もういい。

 

無力な私がここに居て出来る事は無い。

それから数日の間は余震が続き、その度に津波警報が出された。サイレンの音はこの光景が再び繰り返す予告の様で恐ろしかった。

 

帰る日の事はあまり覚えていない。

残りの燃料などは気にせずひたすら走った。行きと反対にだんだんと景色が見慣れた物になってくると、ここが現実だという実感が湧いてくる。

すっかり今までと変わらぬ景色となり、1番最初に見かけたラーメン屋に入った。

ロクに食べていなかったせいか、運ばれてきたラーメンの湯気がもう美味い。

熱々のラーメンをすすり、やっと目に前の光景が現実のものであると思えるようになった。

家路につく道は来た時と同じだが気持ちは全く別物だった。トボトボと、トボトボと。何もする事が出来なかった負け犬の後ろ姿だっただろう。

家に帰り、数日間電気のない生活が続いたがそれはあっさりと終わった。急に送電は復旧し、私たちは再び今までと変わらぬ文明社会に戻っていった。

 

この数日間、私たちの消費生活はいかに脆い均衡の上に成り立っているのか痛感したが、薪ストーブやガスランタンなど現代社会に迎合しなかった道具たちは人間の社会で起きた事など関係ないと言わんばかりにそれぞれの役割を果たしてくれた。

この経験から不便でも、確実に、自分がコントロール出来る道具に囲まれて過ごしたいと思うようになった。

 

電気も復旧したので私は東京へ帰る事にした。相変わらず新幹線は動いていないが、高速バスは動いているようだった。

チケットを予約し駅のターミナルに向かう。

止まっている新幹線の分を補うために増便しているとの事だったので、さぞ混んでいるのかと思いきやバスに乗ると他にお客さんは1人しかいないので好きな席に座ったください。と言われ、せっかくなので一番後ろの長い席に横になった。

 

疲れ切っていたせいでバスが動き始めてすぐに寝たが、高速道路の至る所に段差が出来ていて度々バスが大きく跳ねた。

ガラガラの高速を走り、着いたのはまだ暗い東京だった。

知り合いの話を聞くと、東京もかなり揺れたそうだが、私のアパートは無事だろうか。

街はどうなっているだろうか....

西新宿で高速を降りたバスの窓から見える景色はいつもと変わらない新宿の街並みだった。

当たり前にこの時間でもお店は開いているし、ネオンは変わらず明るい。

バスから降り、街の匂い、今までと変わらない匂いを嗅いだ途端に私が過ごしたこの数日間は存在しない幻のように思えた。

停電も、ランタンの明かりも、薪ストーブで沸かした風呂も、おびただしい瓦礫の山も....

 

中野のアパートまでタクシーで帰り、鍵を回す。

扉の前で一呼吸。

どんな光景があっても私はそれを受け止めなければならないのだ。

古いドアが開き塵がキラキラと朝日に照らされる、気が抜けるほど見慣れた光景だ。

グラスも戸棚にしっかり収まり、なんなら普段の部屋よりも整然として見えた。

いつもの生活に戻る。

私がいつも通りの笑顔を見せていれば、ここも今までと変わらない生活を私に与えてくれる。

東京に戻り、普段通りの仕事をして普段通りの買い物をする日が続いた。

 

 

小屋を作るにあたって

私は誰かの生活や生き方を否定する気は全くない。

私は、いつ崩れるか分からない危ういバランスの上でそれを意識せず暮らしている。

それでも不要な物を買い、まだ使う事が出来る物を捨てていた必要以上の消費活動を続ける気にはもうなれなかった。

あの時の体験は私の考え方を大きく変えるには十分な出来事であり、私の心は憧れだった都会から、生まれ育った場所に再び戻ろうとしていた。

幼い頃から山に登り、川で泳ぎ、冬は雪にまみれて過ごしたあの場所だ。

とはいえ、何かしたい、と思っているその何かはあまりにも漠然としたものだったし、私自身の内面なんてどうやったら形に出来るのか、問を抱えながら過ごしていた。

 

遊びのフィールドは段々と山の中に戻ってゆき、フライフィッシングや山奥での野宿、狩猟をするための準備などをして過ごす様になる。

帰省した時に家の周りの倒れそうな木を切る、またその薪割りが楽しい。

この薪はいつか熱となり、私たちの体を温めてくれる。そんな当たり前の事を想像するだけで冬が楽しみになり、積み上がった薪というのは素晴らしい眺めだった。

何より自然の中で斧を振り上げる労働は清々しい。

 

忘れていたわけではない、そこには小さな古い小屋がある。

 

川沿いの、薄暗い熊の通り道に建ち、ヤマカガシとスズメバチの巣だらけのそれについて私が思い出すことは、楽しく暖かい幸せだったと言える父との触れ合いの時間の記憶だ。f:id:takamattsu:20210905224008j:image

父が使っていた登窯があり、薪を運ぶ父の後ろをついて行く私を、帰りは一輪車に乗せてくれた。

そのハンドルを握る手は大きく、木屑だらけでボロボロの軍手がはめられていた。

窯焚きは我が家にとって(あるいは子供たちにとって)お祭りで、火を入れる何日も前から楽しみであり、保育園や小学校の帰りに小屋の煙突から火がついたばかりの黒い煙が昇るのを確認すると、もうたまらなく嬉しくて嬉しくて、嬉しくて駆けて行った。

 

普段は川底の石の様に静かで、暗い小屋。

粗末なドアを開けると、木の匂いと煙が充満した室内に雨粒大の汗を額に溜めた父がいる。

塵だらけのラジオからはどんな番組なのかすら分からぬ音が流れ、吊るされた裸電球の灯の下に立つ私に気がつくと、わずかに表情が緩むがその視線は真剣そのものである事が理解できる。

 

邪魔にならない様に遠慮がちに窯の周りを歩き、父の仕事を観察する様なフリをする。

窯の蓋を開け、薪を数本くべる間、父の顔は赤く照らされて、地面に置かれたばかりの先が赤くなった薪を混ぜる鉄のカギ棒の周りでは埃が細かい炎を上げている。

蓋を閉めるとわずかに緊張感が和らぎ、次の薪をくべるまで少し時間が出来る。

まだ安定しない窯の温度計から古ぼけた戸棚に父の目線が移り、その中から駄菓子を2つ選ばせてくれる。

父は窯の端に置かれた白い湯気を上げるヤカンからカップにお湯を注ぎ、背もたれのビニールが剥がれたパイプ椅子に腰かけると、私といくつか会話をしてくれた。

再び立ち上がった父が窯の蓋まで行くと、私は小屋を出て少し坂を上がった所に腰かけ、さっきよりわずかに白くなった煙を見ながらレモン味のラムネを食べた。

 

日が暮れると手伝いに人が集まり、焼締めの大皿に並んだおにぎりが運ばれる。

窯焚きはカップラーメンを食べる事が許される貴重な機会だ。(他はキャンプと母が泊まりでいない時だけ)

アソートの袋に入った小さなカップ麺を何味にするか、姉と真剣に悩む。

大人達に混ざり、埃っぽい小屋の汚れた机の上のカップ麺をすするという事は子供にとって最高の経験だ。

それは窯の隣にある薪棚まで薪を2、3本運びたくなるくらい素敵な体験だった。

 

減築されてすっかり小さくなった小屋の前で記憶が溢れてきた。

粗末なドアを開けると、土埃っぽい匂いが充満した室内に、役目を終え久しい赤茶色の肌の窯だけがあるだけで、15年以上の時の流れは残酷にも懐かしさよりも寂しさ、虚しさを呼び起こす。

再びここの灯りに人が集まる様にしたい。あの記憶の場所がたまらなく恋しいのだ。

登窯として火を入れてやる事はもう出来ないが、父が集めた廃材やガラクタでここを生まれ変わらせよう。

立派な、贅沢な小屋する必要はない。私の子供達がいつかこの場所を思い出す時には、不器用な父との少し切ない記憶として取り出してほしい。

 

普段暮らす家とは違い、たまに来て過ごす場所であるから、ここは私の理想を試しながら作ることにした。

 

必要なものがある場合、自分で作る。それが出来ないものは要らない。

快適さのために高価な材料を買って使う事もしない。

寒さや暑さ、労働を楽しむ生活をする。

簡単な解決方法を選ばない、挑戦と実験をもって解決する。

無駄な消費はしない、不要になったものを再利用する。

中の環境を、必要以上に外と違うものにしない。

再生や再利用の出来ない材料を使わない。

 

と、こんな事を考えていた。

かなり漠然としたものであるためわかりにくいが、簡単に言えば雨風を凌げて中央には小さな薪ストーブがあれば良い。というものだった。

暑さはあまり苦にならないだろうが、冬は厳しいだろう。それでも寒ければ着込めば良いし、我慢すれば良いのだ。

白い息を楽しめる逞しさを忘れ、常識的な方法で解決したならば、ここの生活は失敗になるだろう。

それでは外の世界で何か起きた時、私も小屋も機能しなくなるのだ。

小屋とともに成長しながら「世の中の事」を少しずつ知って行きたい。

窯だった大量のレンガと向き合い、運び出し続けた1週間、私はずっとそんな事を考えていた。

 

それからの事はまとめた動画がYouTubeにあるので、そちらを見ていただいた方が良いだろう。

www.youtube.com

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1年3ヶ月たって思った事

今年の8月まで、何度もここに滞在しながら手を加えてきた。

冬の寒さは強烈だったが、納得のいくように防寒対策を加えながらなんとか過ごす事ができた。f:id:takamattsu:20210905224119j:image

家のように暖かければどんなに良いかと何度も思う。

ある朝、凍えながら起きると外の木に1羽の鳥がとまっていた。

寒そうにしながらも、その姿がとても自由に見えるその鳥の、巣はどこかにあるだろうがきっと雨風だけ凌ぐ簡単な物だろう。

今朝は特に冷えるよなぁ、と親近感が湧き思わず笑ってしまう。

それが飛び立った後、雪の積もった木に残った足跡からはその軽やかな羽ばたきが見えるようであった。

私はどうかこの小屋を、自然の中から近しいものにしておきたいと思った。

たしかに断熱材も1つの答えだろう。

しかし、私は寒い寒いと言いながら自分のアイディアと工夫を、この場所の装飾とするのだ。

それらは美しく、暖かい。

 

この実験と挑戦、いわばここの生活の根幹となる純粋な創造的実験を、市販品で埋めてしまうにはもったいない。

専門家や、あるいは本の導きをなぞる事が完成ならば、この場所にとってその完成は無意味だ。

自分で考える事を怠けなければ、いつまでも純粋な実験と忍耐の時間は続く。

素晴らしき永遠の未完成だ。

 

春には念願だった屋根付きのウッドデッキを作った。

これで雨の日でも作業が出来るし、薪だって十分な量を保管出来る。f:id:takamattsu:20210905224245j:image

雪が溶けたら作りたいと思っていたが、着手できたのは運よく立派な古材を譲ってもらう事ができたからだ。

これだけの立派な材木を買ったらいくらかかるだろう。

それにこの時、ホームセンターの木材の在庫が安定しない、という出来事があった。

新品の、ただでさえ供給不足な木材を買ってきて森の中にウッドデッキを作るような事はあまり気が進まなかったので、使い道がなくなり、外で雨ざらしになっていた古材でここを作ることが出来たのは、自分の考え方のピースがピタッとはまったようで良い気分だった。

 

夏には畑を作った。

ここでは食べ物は一方的に消費するだけだったので畑を作り、生きるため糧を生み出したいと思っていた。

普通の畑と違って頻繁に見回りができないため、まだ実験的な畑だが、ここに最適な運用の方法を見つけたい。f:id:takamattsu:20210905224315j:image

釣りや狩猟も食べ物を得るための手段として考えているが、こちらもまだまだ実用には程遠いのでやり方を探りたいと思っている。

 

自給自足なんて立派な事を言うつもりはない。

私の生活は生み出す物よりも消費する物の方が圧倒的に多いし、消費活動のために行う労働の方がはるかに多い。

それでも、考えていたい。

ここの未来を。

生活の多くを失うような災害を経験しても、脆いバランスの上に成り立つ当たり前の生活を続けてゆくのか。

子供達がいつか私の歳になった時、今私の目の前に広がる自然を彼らに残す事が大人の責任だろう。

小屋の前で遊ぶ子供を見てそう思っている。

 

終わりに

次は小屋の土間に床板を張りたい。

これは私にとって大きなチャレンジである。

床板を、ただ張るだけだ。床板を、ただ。

父が集めた廃材はもうほとんどを使い切ったが、先述した理由で材木を店で買うのは気が進まない。

私にとってそれは消費であるし、同じ材木が隣のホームセンターより100円高いとか、この材料が無いといった知らない誰かの都合に振り回されるのが嫌だからだ。

骨組みは森から切り出してきた木を使い、床板には薪用に切り倒してある松の木をなんとか製材して使えないかやってみようと思っている。

無理だろうか。

きっと投げ出したくなる事ばかりだろうが、いつか見た鳥のようにここで自由に生きるためには私の汗をその対価とするべきだろう。

どんな作業になるかは分からない。

ただ私はここにいて、斧を振り、火を焚き、佇み、眺めるだろう。

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